神の勝利から逃げない

祝福とは何か と考えた時
神様の喜びを共に喜びあう
ということが思い起こされます

私たちが喜び楽しんでいる時に
もし神様が一緒に喜び楽しんで
くださっていなければ
その喜びや楽しみは虚しいです

また とても喜べないような
出来事の中でも喜びなさいと
聖書には書いてありますが

とても喜べないような時でも
神様が共にいてくださることは
それだけで喜ぶに値します

これは勿論 気持ちの問題もあります
ストレスは心身を蝕みますが
神様がいてくださることで
自分自身を蝕むようなストレスから
解放されるのは素晴らしいです

しかし それだけではなく
神様がこの件を通して
栄光を現してくださるという
期待と信仰の上に
神様は実際にそのみちからを
現してくださるのです

敵はその祝福を盗みたいわけですが
盗むといっても物理的に
取られるということではありません

彼等は喜びを奪いたいのです

彼等は私たちががっかりしたり
落ち込んだり不信仰に陥るのを見て
喜び踊ります

敵に喜びを盗まれるというのは
そういうことなのです

ところが 私たちが
がっかりするような状況や
落ち込むような状況
神様が信じられなくなるような
状況にありながらも

神様に期待して賛美をし
神様の喜びを自分の喜びとし
神様だけを信じ抜くと決意するとき

敵は落胆し 舌打ちをします

それが「勝利」なのです

そして神様の栄光が形となり
地に流れだし始めるのです

敵の嘘に同意をすれば
敵に力を与えて
敵を喜ばせることになり
破壊が人生に流れ込んで来ます

しかし神様の喜びに同意をすれば
神様の創造の力が人生に
流れ込んで来るのです

今日 ひとつ感じたことがあります
それは 新しいことを始めるとき
何故いつも敵が攻撃をしてくるのか
ということです

地境が広がるときにも
同じようなことが起きますが

新しい素晴らしいことが
動き出す時に それに対して
ネガティブな感情を抱くなら
それが毒となり素晴らしいことに
ブレーキをかけることになります

敵は そのようにして
素晴らしいことが形に
ならないように攻撃を
してくるのだなぁと思いました

以前書きましたが
煩わしいことが続く牧師が
神様 いつまでですか!と叫ぶと
あなたが煩わしいと感じなくなるまで
と 仰ったことが思い起こされます

敵の嘘に対して またお前かと
敵に背を向けて 神様の方を向き
神様の平安に留まり憩うときに
敵は 敗北するのです

人や状況を変えようとしても
それは全く意味がないのです
自分が変わらなければ
いけない事柄であるなら
何度でもそれは起きるからです

神の勝利に預かる鍵は
私たちが選択するものに
かかっています

いつでも 神様を選びます

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