見ることを許されるという恵み

今 士師記を読んでいますが
以前は「出来事・史実」として
さくさく読めていましたが
あまりにも神様不在過ぎて
逆に読むのが辛く 申命記も
平行して再読しています

しかし イスラエルの人々が
神様に逆らうとこは
あらかじめ預言されていたことで
モーセのとりなしによって
滅ぼされなかっただけであり
必ず時が来たら彼らを滅ぼすと
神様は仰いました

奴隷であることに不平不満を言い
救ってくれた人と神に不平不満を言い
神の怒りを買いましたが

しかし その不平不満の
的となったモーセ自身は
ただ神様の御名のために
とりなしをしました

そんなモーセも一度だけ
失敗をしています

あまりに不平不満だらけな
人々に怒ってしまい
神様が 彼らに与える恵みに対し
こんな人たちのために恵みを
取り次がなければいけないのか!
と 言いながら岩を割り水を
出したときのことです

心をかたくなにされたものは
神様に 知ることを
許されていないものかもしれない
神を知る知恵知識というのは
人の悟りによるものではありません

ですからイエスさまは
例え話をされました
悟ることが許されない人に
教えることはされませんでした

しかしイエスさまは弟子にこう仰った

私の言葉によりあなたたちは
聖められた

悟りを与えられることは
神様によりますが
しかし それは神様の
ほんの一部であると思います

本来は 人々に少しずつ
許されたものを
互いに与えあうことで
ひとつとなるのだと思う

だからこそ その人の
背後で佇み微笑まれている
イエスさまを見る必要が
あるのだと思います

イエスさまは 全地におられます

そして神様がなさったことの
素晴らしさをいつも賛美し
私たちのためにいつも
とりなしてくださっています

みことばにより聖くなる恵みとは
それを見ることが出来ることを
許されることが一番であると思います

自分の力で祈ろうとすると
自分の中に愛がないことに
凹んでばかりです

しかし 自分の力に頼る必要はない
ただ 良いものに心を開くだけでいい

見ることが 第一であり
見えることこそが恵みだと
本当にそう思います

そしてそれは
切望する全ての人に
開かれているものです

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