神様の情熱

申命記 ヨシュア記 士師記と
読み進めていますが
以前はこの辺りを読むにも
とても辛かったのですが

今は全くの平常心で
読むことが出来るようになり
ただ史実を追う感じだったのが
詳細まで意識が向くようになりました

しかしよく考えると
今まで冷静に読めなかったのも
自分に与えられた賜物が
起因していたのだろうと思います

神様が怒ってると
怒らないでーっとなるのです
神様を恐れることは
知恵の始めかもしれませんが
それが辛くて読めなかったのです

こう言っちゃ何ですが
旧約の時代というのは
何千年も前の話であり
いちいち怒らないでーっと
反応してたらそれは
読み進めるのが大変になります

しかし その賜物があるから
イスラエルのために
祈ることが出来るので
賜物を上手く使えないように
つけられてしまっていた傷を
癒していただいたことで
冷静に読めるようになったのだ
と思います

癒されることは
とても大切なことだと思います

そして 今の時期だからこそ
受け入れることが出来るようになった
示しというものがあります

それは 聖いものは益々聖くなり
悪いものは益々悪くなる という
選り分けの時だというものです

それは黙示録に書いてあることで
今日の礼拝メッセージにも
出てきたので 念を押されている
感じがしてならないのですが

しかし それこそが神様の
ご性質であるとするなら
放蕩息子の話も至極納得がいきます

悪い思いを持つ者に対して
諭すことをされずに
あなたの好きにやりなさい と
送り出す神様であるということです

そういえば
イスカリオテのユダに対しても
イエスさまは あなたのやるべきを
やりなさいと後押しされました

ぺテロの裏切りにも
あなたは私を知らないと言うと
ただ事実を述べられました

ただし 悔い改めるなら
憐れんで迎え入れてくださる
その事を放蕩息子の例えは
示していたのだと思いますが

しかし それは
善悪の分別が
出来る人に限ります

善悪の分別を知らなければ
罪に定められることはありません

何がやってはいけないことかを
教えることが最初なのです

教えて学んでいるものが
それでも自らの意思で
悪いことを選ぶのであれば
好きにやりなさいと送り出します

それは 霊的に見れば
死に渡すようなものですが
本人が望むなら神様は
止めることなく送り出すのです

引き留めません
諭しません
ただ 帰ってくるのを待ちます

引き留めようとしたり
諭したりするのは
人に与えられた責任です
聖書に手順が書いてあります

しかし その手順によって
諭しても聞かないなら
異邦人のように
扱いなさいと書いてある

悪いことを 悪いと知らずに
やるもののように扱いなさいと
憐れみをかけるようにと
聖書には書いてあるのです

旧約の時代と新約の時代の
一番の大きな違いは
人は神様の器として自分自身を
全て差し出すことが出来るので
人のやり方による失敗を
しなくて済むということです

異邦人である私たちは
何が善で何が悪かについて
間違えたことを学んでいるので
それを捨てる過程が
必要であるわけですが

それを人がやるのは
恐らく不可能なのですが
聖霊さまによってそれが
可能になるのです

最近聖書を読んでいて
物凄く感じたことがあるのですが

それは 神様を愛するなら
律法も愛しく感じるはずだ
ということです
何故なら 神様のご性質
そのものであるからです

しかしもし 律法を
鬱陶しいものであり
それをみんなに言うと
煙たがられると思うなら
それは神様のことを
鬱陶しいものだと
言っているのと同じです

神を愛するものは
律法も愛するようになります
神の義を第一にするというのは
そういうことだからです

例え律法に反逆しているかのように
生きていた人でさえも
神様に触れられるときに
慕い求めるようになる

そういう証を私は
いくつも聞いているので
神様を愛する人は
律法も愛するようになると信じますし
神様は ご自身でその人を
あらかじめ選ばれているという
聖書の言葉を信じます

ではどうしたら神様を
愛するようになるか

見たことも聞いたことも
触れたこともないものを
愛することは出来ません

聖書には聞くことにより
信仰ははじまると書いてある

聞くこと 言葉を通して
神様はご自身を現されるわけですが

それは誰に対してでもではなく
神様ご自分の選びにより
ご自身を示されます

人が教えることによるのではなく
神様が直接その人に
触れることで命は与えられ
神様の愛に触れられたものは
神様を慕い求めるようになる
そう信じます

慕い求める人に対して
神様のこと(聖書)を教える役目は
人が担っていることではありますが

神様の情熱は
求めるものには
惜しみ無く示してくださるけど

触れられた人にしか
わからないものなのかもしれないな

と 聖書を読んでいて
なんとなく思うのでした

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