知らなくても守ってくださる神

昨日がアウトプットの日で
出し切ったからだと思いますが
今日は神様から 新しいことに
取り掛かるように示されました

アウトプットの時は
それに集中するのですが

手を動かしたり何かを
吸収したりしようとする時は
聖書や賛美により
心や場の雰囲気を神様で
埋め尽くして行います

今 何度目かの申命記を
読んでいるところで
先日も 自分が勝手に
悪いことだと思い込んでいたことが
律法では全く触れていなかったことに
気付いたことを書きましたが

律法の規定について
かなり簡略化して
人の都合で解釈してはいないか?

と思うようなところが
まだまだありました

自分の思いに聖書を
寄せてはいけません

人が人の思いに聖書を
寄せて解釈している場合は
それに対してどう対応するかは
神様に訪ね求めるようにしていますが

過去 私がまだ聖書を知らない時も
神様が 聖書の教えの通りに
聖書を自分に寄せた考えから
守ってくださっていた
ということに気付きました

どうしてその様にされたのか
当時は全くわからず悩みましたが
今なら何故神様がそのように
されたのか理解が出来ます

何故なら その後の数年間
ずっとその件について同じ恵みを
神様が私たちに繰り返し
語り続けておられるからです

実は今日 その事について
良く出来た点を喜び感謝したり
少し自分達の思いを高く
引き上げる必要があるねと言ったり
りゅうくんと色々言っていた
ばかりだったので

神様は 私たちにこの領域について
賜物を下さっているのだと
改めて実感することが出来ました

他にも与えられた賜物 それも
神様があらかじめ
備えてくださっていた
自然の賜物について
色々と分かち合いがあったので
それについても機会があれば
書きたいと思いますが

賜物というのは 人を
祝福するためのものであると同時に
祝福することで自分には
神様の喜びという報酬が与えられます

その報酬こそが生きる糧であり
その糧を得るために私たちは
神様に命を与えられたのだと思います

与えられた賜物により
神様が愛を注ぎたい人へと
その愛を届けることが出来るように
たくさん祝福出来るように祈ります❤️

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