召しとお仕事

手の技を祝福する と言って貰ったものの
それが一体どういうことなのか
というところが自分の中で
いまいち落とし込めていませんでした

というのも 今までは
作りたいという思いが与えられ
祈りにより これを作るので
いいという確証が与えられ
作るからにはこれを手にする人が
神様に触れられますようにと祈る

という感じで 目的もなにもなく
私の思いも関係なく
示されたものを短期的に
集中して祈って作っていたのです

私は 自分ではモノ作りに
向いているとは思いませんでした
何故なら とても飽きっぽいからです

以前先輩デザイナーが
言っていたのですが
デザイナーは飽きっぽい方がいい
成功をしてもそれに執着せず
新しいものを作ろうとするから

という言葉を励みにしたいほどに
とにかく飽きっぽい上に
誉められるとそれに
執着してしまうのが嫌で
原画を切ってしまうことも
あったほどでした

クリスチャンになってからも
何かを作っても積みあがらず
壊されてしまうこともあり

自分の手の技が召し という
実感は全くありませんでした

ですがもし 私の作るものが
積み上がっていくようになるなら
それは奇跡であり 私によらず
神様によるものだと言い切れます

対して 料理やお菓子などの
作ったらすぐになくなるものは
神様と楽しく作ることが出来ました

しかしそれで商売をするという
感覚は全くありません

一度だけ 人に言われて
真剣にビジネスとして考えて
動いてみようと思い
色々調べて動いたことがありますが
すぐに道を閉ざされてしまいました

しかし神様は りゅうくんを通して
私と一緒にお菓子を作りたいと
示してくださったり
具体的にこんなものを
作りなさいというビジョンや
思いを与えてくださいます

作るのはいいけどこれ
どうするんだろう?と
思いながら 作っては
周りの人に配っており

それは預言的行動と感じますが
しかし多くの人が まるで
売り物のようだとか
売ればいいのにと
今でも変わらず言われます

意味はあるのでしょうが
まだその時ではないと感じますが
私の作る料理やお菓子
また私が人を食事に招くことは
人を力付けるものだということは
なんとなく感じています

絵についても カードを
作ってはみたものの
どうしたものかと思っていると

ベテルのユースの人を通して
これはお金を出して買う価値が
あるものだとわかっている?と
後押ししてもらったのですが

自分自身のモチベーションと
販路の部分でどうも
自分の中にしっくり来ないものが
ありました

それで そもそもこれらのことは
何を目的にしていることなのか
という部分から考えてみることにしました

が 考えてみると

神様がやりなさい 或いは
やっていいよ というから
やっているだけであり
それ以上も以下もないのです

しかしでは 神様が
許可をくださる前は
どうだったでしょう

婚約式や結婚式の時に
作ったクッキーやチャームは
記念になるものを と
思ったことがきっかけでしたが
人からの要望を受けた部分も
多くありました

編み物はどうでしょう

きっかけは 神様が私のことを
編み物を編むように創られた
という預言の言葉でした

神様の愛を知りたいと思い
編みぐるみを作ろうとしたところ
全然上手く編み進められず

挫折しかけていた時に 神様から
帽子を作る機会を頂き
その体験により編みぐるみを
作れるようになりました

それは愛を伝える手段として
とても良いもののように感じたので
たくさんの必要とする人に
届けたいと思いましたが

神様は 私たちを文章を書く方へ
広告の方へ 絵を描く方へと導かれ
私たちにある召しは
文章を書くことと絵を描くことだと
はっきりと示されました

それとは別格で
神様の祝宴のお手伝いという
召しもあるにはあるようですが

「今の季節にやるべき神様の仕事」は
文章と絵であるようです

それぞれにおいて神様が
どんなことをされているかを
考えるとなんとなくわかります

文章や絵には 神様からの
霊的打ち破りが注がれています

そう考えてみると 今の日本において
ただ純粋な愛を伝えることが
神様を知らせる手段としては
適していないのかもしれない
という体験が編み物にはありました

神様の愛に抵抗している人や
人が愛されることに嫉妬する人に
編み物を悪く言われることが
結構あったのです

ですが 絵や文章については
わからない人にはわからないので
そういった摩擦は生まれません

食べ物についてはどうなのでしょうか

弱っている人を力付けたり
神様の祝宴により労ったり
確かに神様の仕事をしていますが

商売をするというよりは
働き手を養うという感じです

働いているものが食事をするのは
当然だからです という聖句の
食事を作る側にいるような感覚です

またこの賜物は 神様が与えたい人が
既に選ばれている気がしており
商売=お金を出せば買えると思う人に
提供して良いものか?と考えると
大変微妙なのです

このことについては
食事だけでもなく

絵にしろ編み物にしろ
こちらがあげたいと思っても
あげることが出来ない人もいます

また あげるべきではないと
示される人もいますし
預言的にお金を頂くべきと
示されることもあります

その霊的な流れに対して
あれこれ思い悩むと
間違えた方向に行くので

要するに 私の思いとは
全く関係なく霊的な物事が
働いているようなのです

この事は 神様の御思いやご計画に
自分の決断や思いを寄せるための
訓練になっていると感じます

時には自分がやっていることが
りゅうくんが書いた物語の
この部分に似てるなぁ と
思うこともあります

とすると 次はこうなるはず
と思っていると 本当に
その通りになっています

考えてみて思いましたが

目的は人の目には高過ぎて
よくわからない

で良いのかもしれません

よくわからないけど
ひとつだけわかったのは
神様のご計画を自分の思いで
止めたり遅らせたりしないようにする
訓練の時なんだろうな ということです

今の季節にやるべきことを
しっかりやり遂げられますよう
祈りながら進みたいと思いました

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