献身に至る過程

この週末に教会で 3人の姉妹から
全く同じことを示され 祈ってもらいました
祈ってくださいと言ったわけではないのだけど
祈ってくれたのです

教会で リーダー格を持つ人3人から
示された預言は神様からのものだと
自分の中で決めているので
これは自分にとって とても大切な
預言的示しだと真摯に受け止めることにしました

(実際は 預言を受け取ったら
3人のリーダーに吟味して貰い
全員の一致があれば信じて受け取りましょう
と教えているので 順番が逆転していますが)

祈られたのは「私の手の技」についてでした

婚約式の記念品から始まり
お菓子作りやモノづくり
日々の食事や人を招いての食事など
神様は確かに私の手の技を通して
何か大きなことをしてくださっていると
感じていますし

お菓子作りなど 自分にとっては
あまり乗り気になれないようなものについて
神様が私を通して何かをされようと
しているということを感じます

乗り気ではないとはいえ作れば楽しいし
美味しいと思うのですけど
私の思い以上に神様の喜びを感じるのです

今までの体験や神様からの語りかけ
それに今回3人に祈られた内容を繋げて考えると
自分自身のアイデンティはこういうもの
という姿がなんとなく掴めました

それにより 自分の時間を何に使うべきか
少し深く考えました

というのは この週末のメッセージで
献身というキーワードがあったからです

献身というのは何も牧師になるとか
教会で奉仕するとかいうことではありません

自分自身の時間を神様に捧げるということです

それは自分の意志でやるばかりではなく
中毒となっている場合は神様から
その時間を私のために捧げるようにと
示されることもあるそうです

神様以上に頼るものがある状態は
偶像を頼っている状態であるからです

礼拝のメッセージの中で
ゴルフが大好きで毎週ゴルフをしていた
牧師が ゴルフを捧げるように神様から
示されたというお話がありました

ゴルフだけは譲れませんと
かなり神様と格闘したそうですが
最終的に牧師は神様に従いました

そして25年後 神様から
あなたの内から偶像は消え去ったので
もうゴルフをしても良いと示されたそうです

そしてゴルフをしてみると
その時にはもう中毒から解放されていたので
純粋にゴルフを楽しむことが出来たそうです

ゴルフに使っていた時間を
神様のための時間 例えば
聖書を読んだり祈ったり賛美をする時間と
することを 献身すると言います

また 仕事をすることを通しても
献身することは出来ます

お金を稼ぐために仕事をするのではなく
神様の栄光を現すために
神様のためにと仕事をすれば
それは献身となるのです

そんなことを意識している中
今まで 毎日やっていたことを
しようとすると お腹が痛くなる
ということに気付きました

これは やらなくていいってことかな?
と思ったのでりゅうくんにも
神様に確認してもらうと
やる必要はないと示されたので
辞めることにしました

また逆に 以前神様に示されたと思ったのに
上手く噛み合っていない事柄があったので
これもやらなくていいでしょうかと
辞めていいでしょうか と尋ねると
行ってよいと示されたので辞めました

そして 自分がやるべきだと感じて
やっている色々なことについて
本当にやっていいのだろうか と
思いながらQTをすると

神様が 私がやっていることを
象徴するような姿を見せてくださり

神様がやっていることをあなたは
やっているので大丈夫ですよ と
示してくださいました

その時に見た神様は
まるで交易商人のようでした
そして船に乗って外に出て行くような
イメージを見せられたので

あれれ 約束の地に着いたから
ここで作物を作るのだと思ったけど
違うのかー と思いました

そういえばりゅうくんが書いている
物語にも 全く農耕をする雰囲気はなく
村々を巡り歩いているので
少なくとも今は その場にじっくり
落ち着いて何かを育てるという
召しは私たちにはないんだな と
改めて思いました

以前 教会の祈り会に参加した時も
私たちは留まるのではなく出て行くものだ
という感覚がありましたが
教会から出て行った先で何かを
育てるのでもないようです

神様は 御国の文化を
海路を使って送り出していく
というイメージを見せてくださり

海かぁ 海外ではないだろうし
どういうことだろう

と 思っていたら
正にそれにぴったりのものが
Facebookのタイムラインに
流れてきたのです

それは「はこぶね便」というサービスです

ここには カタログギフトたらんとという
クリスチャングッズの委託システムがあるのです

りゅうくんに言うと いいと思うと言うので
次のグッズが出来上がったら
申し込んでみようと思っています

冒頭に書いた「手の技」については
実はまだ自分の中で完全に
掴み切ったわけではないのですが

日々の事柄に その召しから
ずれたことがそぎ落とされていくのだろう
ということを感じます

人の思いに寄らず 人の知識に寄らず
神様の栄光が現れますように

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