神の国と義を第一にする

今日は 月に一度のステーキの日ですが
最近 体力がついてきた母が
牛肉が食べたいと言っていたので
今回は 母も誘って行きました

しかしここ数日急に寒くなったため
体調が優れないと言っていたので
車の運転大丈夫かな?と心配しましたが

行かないという選択肢はなかった
痛み止めなど飲んで凌いできた!
と意気込んでやって来ました

昨日は咳き込んで死ぬかと思った
とか言っていましたが
死にそうな人は肉を食べるために
頑張れませんから大丈夫だと思いました

鼻炎の薬を飲んだら
治まったらしいですが
家で一人でいるだけなら
体調が急に悪くなると
頑張ろうとも思えないでしょうから

人と会う楽しい約束がある
というのは母のために
良いことだったのだろうなと
改めて感じました

今日は食事の他に
白いズボンをコーヒーで
染めることも計画していたので
食後 そのまま実家に行きました

前の日に 豆乳に漬け込んで
乾かすという下処理を済ませておき

コーヒーかすを30分ほど煮出して
ズボンを1時間ほど漬け込んだ後
みょうばんを入れて更に1時間
そして水洗いをするという
3時間程の工程でしたが

殆どが待ち時間ですので
頼まれて買っていった
ほうじ茶を淹れて味見したり
お昼寝をしたりしながら
まったりと過ごしました

コーヒーにはビニール袋の中で
浸け込むつもりだったのですが
鍋でいいだろうと母が言うので
そのようにしたら かなり
染まり具合にムラが出来てしまいましたが

手作り感があって これはこれで
いいだろうと思いました

次があるならきちんと
ビニール袋の中で広げて
浸けようとは思いますが(苦笑

そういえば 幼い頃は
自分でこうしようと思っていたことを
母に口出しされて失敗しては
恥をかかされて母を恨む
ということがよくあったなぁ
ということが思い起こされました

そしてその事は 小さな会社に
勤めている時にもよく
体験をすることでした

しかしクリスチャンになってから
大きく変わったことがあります

それは 上の権威に従って
失敗をしても
恥をかかされることが
無くなったということです

これは とても大きなことで
失敗したって自分が
恥をかかされることがなければ
人を恨むこともないわけです

背後の霊が神様であるか
それとも破壊の霊であるか
というのは こういうところで
大きな違いがあるのだと思います

勿論 神様に聴き従えば
それで失敗するということは
なくなるでしょう

ですが 神様は失敗しないことよりも
権威に従うことを
良しとされると感じます

完璧主義よりも神の国の
義の方が大切なのです

神様が背後にいらっしゃるとき
上司や親の間違えた指示にある戦いは
単純に自分の思いとの戦いだけです

しかし ノンクリスチャンが相手だと
時には明らかに 背後に
混乱や破壊の霊が
影響していることもあります

そういう時はどうするべきか
というのが最近の祈りの課題でした

結論から言うと
人の思いについては
裁かないことにしつつも
言うべきことはきちんと言って
責任の所在ははっきりさせます

その上で 背後の霊についてだけ
徹底的に縛り上げる祈りを
続けることで凌げましたが

背後に敵がいるときは
とにかくイライラさせられる
という困った特徴があり
その挑発に乗ってしまったら
恥をかかされてしまいます

権威に従うか否かが問題ではなく
背後の霊にコミットするか否かが
問題だということなのです

敵にコミットすることで
恥をかかされるわけですから
コミットしなければいいのであり
権威に従うかどうかについては
別問題として切り分けられるのです

背後の霊については
一切相手にせず
人のためだけに祈る時

神の義に生きる時 完全に
神様の守りの中で憩うことが出来ます

またそのように人を愛することで
敵にダメージを与えることも
出来るのです

聖書に書いてある通り
どんな権威であろうとも
神様が置かれた権威に
従い 愛を示すことで
神様が勝利をくださいます

人や背後の霊を見るのではなく
神の義を第一にする時
神様の愛と守りに包まれます

全てをプラスにしてくださる
神様に 本当に感謝します❤️

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