恵みにより成長する

どんな規模 どんな環境であっても
同じだと思うのですが

本来 人のためにあるべきものに
人が支配されるというのは
闇に支配されている状態と言えます

例えば 同じ働くにしても
お金のために働いたり
生活や将来への不安を根拠に働くのであれば
そのお金を使う場所には闇が侵入してきて
混乱や破壊が支配します

しかし 愛のためであれば
神様の応援があります

それは 正直言うと
クリスチャンであろうとなかろうと
同じだと思います

しかし クリスチャンではなかった時は
敵に対する防御の部分が全くありませんでしたし

「愛」というものに対する
正しい理解もありませんでした
愛を名乗る偽物があまりにも多かったからです

聖書には 神の武具を取って
戦うようにと書いてありますが

神の武具を持たずに愛に生きようとしても
敵に良いようにやられるだけですし
独善に陥れば それは愛でも何でもなくなります

クリスチャンになる前と今とでの違いは
愛の理解(学び)と 時に適った善悪の分別
そして 完全な守りです

学びの部分については 今まで避けてきたことと
向き合わなければならない面もありますが

しかし それに向き合い成長出来ることは
大変な恵みであると感じます
むしろ それに向き合うことから遠ざけるために
様々な邪魔があったのではないかと感じます

クリスチャンが 本来の自分を取り戻し
真理に固く立つことを敵は最も嫌います

人が神様に作られたイメージに成長することは
邪魔が入ることなのだろうなと思います

また 善悪の分別については
殆どが目に見えない事柄に対する分別なので
人の考えによって分別することなど
ほぼ不可能だということがよくわかります

神様が自分の内に住んで 何が善で
何が悪かを教えてくださるというのは
どれ程の恵みであるかと感じます

そして 守りです

先日少し書きましたが
守りというのは 悪いことが
出来なくなるというのもそうですし

大きなトラブルが起きたとしても
それら全てが益となるということもありますし

心を揺るがされるようなことが起きても
大切にするべきことへと心を
立て直すことがすぐに出来るので
そもそもで落ち込まなかったり
立ち直る速度が物凄く早かったりします

以前は 腑に落ちないことが起きた時に
神様から このようにしなさいと
示されることも結構ありましたが

それを何度か繰り返すうちに
神様ならどうするべきと言うだろう
というのがわかるようになったので
最初から問題に対して気に留めなくなったりもしました

問題に目を向けることなく 神様を見上げる時
全ては良い という創世期のみことばが
心に響き渡ります

良い状態をキープして日々を過ごし
みことばや神様への愛 神様のレーマに
思いをはせつつ 目の前に事に対しては
祈りによりすべて解決していただける

それは本当に 恵み以外の何物でもありません

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