自分の思いから守って貰う

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今 大きな転換期にあるのですが
周囲を見ていると どうやら
目前のテーマというのは

受け入れるべきものが何か
わかってはいるのだけど
それを受け入れ難いが故の
ストレスとどう向き合うか

であるようでした

それは大小様々あるわけですが
以前であれば 自分が我慢すれば
いいや と流してきたものを
神様は 自分がどうしたいかを
真剣に考えて それを求めるようにと
導かれて来ています

逃げるのもダメ 自己完結もダメで
本心としてどうしたいかを考え
それを神様に求めることが
今の大きな課題であるわけです

そして そこに向かうときに
一番邪魔をするのが何かと言えば
「自分の感覚」です

嫌なことに向き合うのは
ストレスになるのは当然なのですが
実際は 神様が為さることは
素晴らしいことだらけで
ストレスに感じるようなことは
何一つ起こりません

Power and Loveで講師が
語られたことですが
しかし だからと言って
ストレスを感じなくなる
ということはありません

何故なら 本当に素晴らしいことが
起きるときこそ 敵が
恐怖心や惑わす嘘をたくさん
投げてくるからです

しかし 忘れてはいけないのは
敵は私たちに指一本触れることは
出来ないということです

感覚だけを投げてきます

しかし その感覚に同意した瞬間
人は敵の支配下の存在になります

敵の支配を受けないためには
自分の感覚に打ち勝つ必要があり
打ち勝つことが出来たなら
敵の支配下にある人に対しても
背後の霊を縛り上げる権威を
用いることが出来るようになります

自分が敵に負けて
ネガティブな感覚に
翻弄されているうちは
他の人の背後にいる敵にも
翻弄されるのは当然です

と いうより
自分を通してだろうが
他人を通してだろうが
同じものに翻弄されている
だけなのですから

敵が自分の内にいようが
外にいようが翻弄されるのは
当然のことなのです

敵に負けてしまううちは
敵から逃げるのもひとつの手です

イエスさまも 子どものうちは
両親に神様が語りかけて
敵から逃げました

イエスさまを殺そうとする
王が立っている間 イエスさまは
両親に連れられてエジプトに
逃げていました

その時の資金は イエスさまの
誕生を祝う博士たちの贈り物で
まかなわれたと考えられますが

イエスさまや両親が
王の殺意を知って
祈ったわけではありません

神様は 必要なものは
物も情報も全てを
ただ与えてくださいました

神の子という身分を頂いたからには
神様にそのように守られていると
自覚することはとても大切です

しかし 大人になるにつれて
神様との関係性は変わります

カナの婚礼では イエスさまは
最初は奇跡を起こす気が
ありませんでした

しかし マリアの信仰をご覧になった
神様が予定を変えられたのを見て
忠実にそれを行われました

今は時じゃない という
人としての思いを
イエスさまは即座に
捨てられたのです

また ゲツセマネにおいては
これから来る受難に対する
恐れと本音を吐露され
血の汗を流されましたが

神様の慰めを受けて
人としての思いを
捨てられたのです

先日書いた通り

このゲツセマネでの出来事は
私たちの魂 心の領域のあがないです

イエスさまの血によって
私たちは聖められると聖書にありますが

肉体的な聖めは勿論
心の領域においても
聖めは頂けます

素晴らしいことが起こる直前にある
敵の攻撃により感じるストレス

私はそれを 敵の嘘だからと
今までは 忍耐してきました

しかし あまりにもストレスを
感じて 体調にまで支障が
出るほどになった時に

神様が このようにしなさいと
ストレスから解放される
方法を教えてくださったのですが

しかし それをやるのも
私にはストレスで
板挟みになってしまったのです

敵の攻撃によるストレスは
緩和されたのかもしれませんが
今度は 自分がやりたくないことを
やっていることがストレスになりました

聖書には確かに
自分の良心が責めても
神様を選ぶべきだと
書いてありますが

それは 自分の思いが自分自身を
責め立てることを意味します

例えて言うなら
ぺテロが網を反対側に
降ろした時のことですが
当時は 他の船との衝突を
防ぐ意味で 船の左側に
網を下ろすというマナーがありました

マナー違反をすることは
良心が責めることですし
神様の声を聞いていない
人々からは 何をやってるんだ!と
笑われたり非難をされることでした

その時に 全く何の葛藤もなく
網を反対側におろすことは
出来ないのは当然です

網を反対側におろすことぐらいは
ぺテロという 漁師の棟梁の
立場にいる人であれば
嫌だなぁと思いつつも
簡単に出来たかもしれません

しかし 例えばサウルのように
預言者から 何故私を待たずに
祭事をしてしまったのかと
責められた時に

あなたが時間に来なかったからだ
今は私の顔を立ててくださいと
人の常識 人のやり方を選び
神様を蔑ろにすることも出来るのです

サウロのこの態度を
ぺテロに当てはめて言うなら
夜通し漁をしても
魚は取れませんでした
その上 マナー違反をするなんて
勘弁してください

と言うようなものです

しかしぺテロはそうは言わず
あなたがそう仰るならやりましょう

と言いました

そしてこの事は

あなたが言うのだから
あなたの責任なので
私はその責任の下で行動をするので
自分の行動を恥とはしません

という意味でもあります

この 恥とはしませんという表現は
パウロが 福音を恥とはしません
と言っていたのと同じニュアンスです

神様に忠実になろうとする時に
自分の行動の責任を
神様にお委ねするということは
物凄く大切なことなのです

それにより 行動に対する
敷居が下がるからです

イエスさまは わたしの荷は軽い
と仰いましたが正にその通りです

そして クリスチャンになってから
ずっと 私の課題はこの責任感なのです

それをイエスさまに委ねる
というのが本当に苦手で
苦手だからこそかなり意識的に
委ねよう 委ねようとしていますが
しかし ストレスは物凄いわけです

神様は その責任感という
重荷を背負うべく色々なことを
語りかけてくださるのですが

そうであっても辛い
ということは頻繁にありました

例えば 会社で偶像崇拝関係の広告を
作らなければいけないとき
神様は ナアマン将軍のように
やるべきことをやりなさいと
示してくださいました

※ナアマン将軍というのは旧約聖書の中で
 ツァラアトという皮膚の難病を神様に
 癒して頂いた外国人です
 今後もうイスラエルの神以外には
 捧げものをしないが
 将軍として国の神事(偶像の宮での神事)で
 遣えることになることは
 ゆるしてくださいと言いました
 列王記下 5章参照

本来なら その声を聞いたときに
平安に入らなければ
いけないのですが

これは自分を正当化するための思いで
神の声ではない という
敵の攻撃があるのです

敵に対しては黙れ と言えば
黙るのでそれが嘘だとわかりますし

逆に 神様の語りかけに対しても
敵の嘘なら黙りなさい
しかし神様の語りかけなら
どうかもう一度語ってください
と祈ってもいいかもしれません

ギデオンが どうか何度も
確認してしまうことを
許してくださいといって
何度も神様であることを
確認したようにしてもいいのです

※ギデオンは 自分が示されたことが
 本当に真の神からであるかを知るため
 2度も神様にしか出来ないことを
 見せてくださいとお願いをしました
 士師記 6章参照

が 私は神様の語りかけを
その時は疑っていませんでしたが

ここが私の弱いところで
神様の声を聞いているのに
平安にすとんと入れないわけです

ただ この状況は
健康的に良くないな
と思いました

神様に どうすればいいのですー
というのはずっと祈り求めて
いたのですが

今日 ふと思い立ち 自分の
思いを全て声に出して
祈るということをしてみました

そこには 自分の希望
こうなったらいいな ということも
含めて全てです

すると程なく
神様から このようにしなさい
という思いが与えられたのですが

やはりそれが自分にとって
ストレスとなることだったのです

しかし 今回はそれに加えて

私の思いから私を守ってください

と祈る思いが与えられたので
それを心の内で叫んだときに
ぱっと ストレスから
解放されたのです

目から鱗でした

神様は 敵の攻撃からだけではなく
自分の内に沸き上がる思いからも
私を守ってくださるのです

そこも委ねるところだったのか!
と 本当にびっくりしましたが
とにかく 本当にぴたっと
自分の思いにブレーキが
かかったかのように
ストレスに思わなくなりました

その後も 神様からの示しが
ある毎に ストレスを感じる思考に
ブレーキがかかり 行動するのが
物凄く楽に出来るようになりました

神様からの示しがあったときに
ストレスを感じてしまい
そこから解放されたいと
願っている人にはぜひ
このお祈りをお薦めします

私の思いから私を守ってください

この祈りにより
神様に聴き従うことを
もっともっと喜びと出来る!
という喜びが湧いてきました

神様は本当に真実なお方です
心から感謝します\(^o^)/✨

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