間違えた罪悪感を手放す

最近 ある姉妹のある思考の癖が
気になって気になって仕方がありませんでした

一体何がどう違和感になって
気になっているんだろう?

と ずっと思っていたのですが
昨日 やっとその答えを教えて頂けました

まず 違和感の理由は
神様から示された愛の定義と
真逆の思考だったからでした

神様は 愛とは非効率なものだと
示してくださり 私の意識も
「非効率な愛」に向かっていたのですが

その人は 効率を徹底的に追及して
効率を阻害するものを徹底的に
排除する方向に向かっていました

しかし それが悪いことだとも思えません
何故なら 私自身も非効率な愛と示されつつ
自分の召しに繋がること以外からは
離れるように言われていたからです

要するに 非効率な愛を
大事にしないといけないのだけど
自分が愛するべきもの以外に
貴重な時間を取られてはいけない

ということです

ですが 気になっていた理由は
もう一つありました

何というか スマートではないのです

当たり障りなく すっと離れればいいのに
相手に恨まれるような態度を
わざわざ取って 事を荒立てているのです

更に 自分自身を正当化するために
相手をどんどん貶めて
自分が評価されることを大々的に行うのです

蹴落とす という表現が一番しっくり来ます

それ やめた方がいいのになぁ
天に唾を吐けば自分にかかるのに

と 思っていましたが

最近やっと「気になる理由」がわかりました

過去の私は悪口を言うほども蹴落とすほども
相手に関心がなかったから言わなかっただけで
クリスチャンになって神様から示され
愛がなかったです ごめんなさいと悔い改めました

私はそうやって人を無視して愛さなかった理由を
「自分は冷たい人間だったから」だと思っていました

しかし それはあくまでも私の主観であり
神様は そうではないと示されましたが

そうではないのであればどうなのか
というのが全く分からないままに
「自分は冷たい」という罪悪感だけが残っており
それが石の心となっていました

というより 心が石になってしまっていたので
神様の声が届かなかったのかもしれませんが

その間違えた罪悪感の故に
人が似たようなことをやっているのを見た時に
もやもやとしてしまったのです

手放してしまえばどうってことはありません
まだまだ若いな 早く仲直り出来るといいね
で終わりますし とりなしの祈りをすることも出来ます

だからこそ神様は私にこう仰っていたのです

石の心に肉の心を与えるのはわたしである

嘘の罪悪感を掴んでいたら
悔い改めるポイントがずれてしまいます

ずれたままに自分自身で自分を
戒めることというのは
自分の悟りに頼っている状態で
それこそ敵の嘘に同意している状態です

それにより神様の介入を邪魔していたのです

そこを手放すことが出来た途端に
神様はこの件についての覆いを取り除き
もっともっと深く状況を教えてくださいました

そもそもで 私が無関心だった理由は
冷酷だったからではなかったのです

私が無視をしてしまっていた人というのは
欲望を軸に発言する人たちばかりだった
ということを神様が見せてくださいました

そういった人の言うことに
同意をしなかったことは
聖書で言えば「正しい態度」であり
責められるようなことではなかったのです

むしろ そういったものに一切同意せず
ただ純粋に愛を注いでいたのに
答えなかったのは相手側の問題で
彼らが神に反発していた故だったのです

今思えば 聖書にはっきりと
欲望を軸に生きる人と
仲良くしてはならない理由が
たくさん書かれています

むしろ仲間にならずに済んだことは
神様による守りであったと信じます

多くの人は そこに妥協を示しますが
神様は 私が感じるままを
肯定するよう示すのと同時に
私があなたをそのように
造ったのだと仰いました

自分の感性をそのまま受け入れるように
神様は何度も示されました

罪悪感を手放し 解放されてみれば
物凄く簡単にわかることなのですが

欲望を軸に生きる人に染まった自分なんて
想像するだに身の毛もよだちます
絶対ないわ と思うわけです

人に媚を売り 人に気に入られようと
アピールをする必要を全く感じません

神様が大好きな自分をとても愛していて
自分に変わるべきところがあるとするなら
神様の召し以外を「効率的だから」と
掴んでしまう悪癖を手放したいことぐらいです

クリスチャンになる前は
そうは言っても孤立したら
生きていけなくなるんじゃないか
という思いがありました

かと言って 自分に嘘をつくことも出来ず
本当に迷っていたと思います

聖書を読んだときは本当に
胸がすく思いでした

今は 自分がもし孤立しても
神様の満たしによって豊かであることで
真の神が共にいることを証出来ますし

神様ではなく人の力に頼る人は
偶像礼拝者であるとわかりました

しかし敵の嘘に惑わされてることは
本当にイラつきます
クリスチャンになる前は
自分の弱さに凹みっぱなしでした

だから神様は私を立ち直らせることを
最初にやってくださいました
強くあれと 励ましてくださいました

そうやって状況が飲み込めた今では
如何にして敵を黙らせるかというところに
物凄く強く関心を持つようになりました

そして 恐らくそれこそが
神様が私を創造されたときの
イメージなのだろうと思います

マイナスをプラスに出来る神様は
私がどんな状況にあろうとも
ご自身の最初のご計画の道へと
私を導くことが出来るのです

そして今 同時進行で
もう一つの課題と直面しています

過去には このような状況が発生すると
いつも自分で抱え込んでしまい
クリアすることが出来なかったのですが

今は りゅうくんと神様に支えられつつ
正しい在り方へと変革をもたらしています

自分がやるべき責任を
丸投げしてこようとする人に
責任を押し返して
その代わりに相手のために
祈りのとりなしをします

今までは 押し付けられると
自分のやるべきことをやる
貴重な時間が削がれてしまうので
物凄い怒りになっていたのですが

それをきちんと本人に押し返すことで
その人自身も成長するので
とても健全であると感じています

神様の介入に頼ることは
物事を健全化していくのです

神様がなさる そのことに
期待が出来ることは本当に
素晴らしいことだと思います

※追記

この日記を書いている最中に
私が祈っていた事柄にとても大きな
進展が2つもありました

本当に神様は愛なる方で真実なる方です
神様に栄光をお返ししまーす\(^▽^)/

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