プレッシャーからの解放

Power and Loveが終わってから
いくつかのことをイメトレしています

その中の1つは「イエスさまを紹介する」
ということです

今まで イエスさまの弟子として
イエスさまと同じことをする ということと
イエスさまの福音を伝えることが
自分の中でリンクしていなかったのです

それは 愛についても同様でした

イエスさまがあなたを愛しているよ
という真実を伝えるためには
自分がイエスさまの代わりに愛を
伝える必要があると思っていましたが

愛に傷ついたことがある人に
愛を伝えようとしても
大抵受け取ってもらえません

むしろ本物の愛を向ければ
恐れて逃げてしまったり
噛みついて来ることだってあり
その度に嫌な思いをしてきました

神様はそういう時
あなたが拒絶されているのではなく
わたしが拒絶されているのだから
気にしないように と仰ってくださいました

とは言えやはり 一度そのように
反発してきた人には近付きたくありませんし
自分自身にも 心から相手に対する
愛がなければ偽善になってしまいます

示されてもいないのに
乗り越える必要も感じませんでしたし
神様も 離れなさいと仰いました

なので どうすればいいのですか
神様にあなたの愛を教えてください!
と祈っていたのですが 今回のセミナーで
そういうことじゃない ということが
身に染みてよく分かりました

トッド・ホワイト師の叔母さんは
トッドが神様の話をするのが大嫌いでした

しかしある日 彼がメッセージをする街に
叔母さんが住んでいて トッドの話を
聞きに来るという電話が母親からあったのです

彼は 来ない方がいいよ!?と言ったそうです
集会を滅茶苦茶にされるのが嫌だったのだそうです

しかし神様はご自身を現わされました

叔母さんのお友達が祈りにより癒され
たまたま通り掛かった車椅子の人が癒され
叔母さんは その様子を何なの!?と言って
恐れながら見ていたそうですが

叔母さんは 自分が経営する乗馬クラブの
会員さんを集めたからすぐに来なさいと
トッドを呼び出したのだそうです

トッドは叔母さんに イエスさまの
愛を伝えようとしたでしょうか
叔母さんの街に来たのだから
ぜひ集会に来て貰い 今度こそ
イエスさまを知って貰おうなどと思ったでしょうか

違います 全く違うのです
そういうのは必要ないのです

イエスさまはご自分で 叔母さんに
ご自身のことを自己紹介出来る方なのです

その際に 器として選ばれたのなら
イエスさまに協力をすればいいだけなのです

トッドの思いとは関係なく
トッドは器として用いられました
出来れば避けたいと思いましたが
神様に示され従順に従いました

その従順こそが 神様から
求められていることなのです

色々と言い訳をして恐れを乗り越えようとせず
動かない人を 神様は用いることが出来ません

またサウル王のように 従順に行動しなかったことを
指摘されているにもかかわらず 言い訳をした上に
今は私の思い通りにやらせてくださいなどという人を
神様は用いることが出来ないのです

収穫は多いが刈り取り人が少ないというのは
そういう状況を指して言っているのだと思うのです

私たちは 自分が神様から愛されたように
人を愛することは求められていますが

神様がその人をどのように愛しているかを
代行して現わす必要は全くないのです

そもそも 祈り手がどんなに
目の前の人に対する神様の愛を感じ取ったとしても
人に神様の愛を代弁することなどは出来ないのです

伝えようとしても伝わりません
私はそういうのを何度も見てきました

また以前 イエスさまの愛を感じるよ と
祈り手の方に何度言われても
私自身がそれを全くわかりませんでした

勿論 そのように言ってもらったから
感じるようになりたい わかるようになりたいと
飢え乾く思いが与えられたので
それは神様の導きであると思います

ですが 人を通して神様の愛を
感じるということではないのです

それについては 権威の問題であるとか
人の思いを神様が用いてくださるとか
神様の愛と思い遣り 慈しみの領域の話であり
神様の御力の器となる話ではないのです

トッドの叔母さんもそうでした
トッドが神様の話をするのを嫌っていて
二度と私の前で神の話はするなと
怒鳴りつけるような人でした

しかし 自分の顧客を集めてトッドを呼び
これから神様が奇跡をなさるわよ!と
紹介をしたのです

何という奇跡でしょう

彼女に 恐れはありませんでした
もし奇跡が起きなかったらなどと
微塵も疑いませんでした
そうでなければ顧客を呼び集めることなど
出来るはずがありません

一瞬にして 人を造り変えることが
神様にはお出来になるのです

クリスチャンは 愛を示す必要はあります
それは神様から愛されたように
人を愛する という教えであり
互いに愛し合いなさいという命令は
確かに聖書の中にありますが

どちらかというとそれは
クリスチャン同士が愛し合うことや
自分を迫害する人を愛しなさいという話です

神様がどのようにあなたを愛しているのかを
伝える時 自分の愛や思いは関係ありませんし
むしろ 自分の思いを混ぜてはいけないのです

神様の臨在を運ぶ器として
自分の思いを横に置いて
神様が示した通りに行動する
その従順さの中に栄光が現れる

それは 人が自分がやったと
誇らない為である とも思います

イエスさまの愛は イエスさまご自身に
伝えて頂けばいい そう思ったら
本当に とても気が楽になりました

イエスさまがあなたを愛していて
あなたと関係を持ちたいと思っているよ

何度も何度も その言葉を自分の中で
繰り返しました この言葉と思いを
自分のものとするためです

私たちは イエスさまの代わりを
する必要はありませんが
イエスさまを紹介する使者と
ならなければいけないのです

イエスさまはご自身が父に遣わされたように
私たちを遣わすと聖書には書いてあります

遣わされたものとして
やるべきことはあるのです

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