あがないのパッケージ

メッセンジャーのセミナーは
今日で本当の本当に最後です

とても楽しくて素晴らしかったので
終わってしまうことが寂しいほどですが

しかしこの学びで神様が私たちに
ご計画されていた「何か」が完成する

それを期待しながら受講をしました

イエスさまの救いの話をする時
聖餐のためにイエスさまが
仰った言葉とイザヤ書により

私たちは罪と肉の病については
理解をした上でその恵みを
頂いていると思います

マタイの福音書26章26-28節
また、彼らが食事をしているとき、
イエスはパンを取り、祝福して後、
これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取って食べなさい。
これはわたしのからだです。」

また杯を取り、感謝をささげて後、
こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。

これは、わたしの契約の血です。
罪を赦すために多くの人のために
流されるものです。

イザヤ書53章5節
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために
刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イエスさまが私たちの罪を背負い
血を流されたことにより
私たちは罪を赦されて平安を得ます

そして イエスさまが鞭打たれたことで
私たちはいやされたと書かれています

このことを 少なくとも私は
罪の領域と 肉体の領域でしか
理解をしていなかったのですが

しかし今回の講義で
イエスさまのあがないは
霊 肉体 魂(感情や思いの領域)という
人を構築する全てにおいて
為されたことを理解する必要があると
学ぶことが出来ました

この3つの領域での癒しというのは
ギリシャ語でsozoと言い
ベテル教会の癒しのミニストリーで
話されることから
知識としては知っていました

しかし今回学んだことは
イエスさまが 実際にどのように
あがなわれたのか でした

ゲツセマネの園で イエスさまは
これから受ける苦しみについて
神様に 出来るなら取り除いて欲しい
しかしみこころのままにと祈りました

その時の苦悩 苦しみというのは
血の汗を流すほどだったと
聖書に記されているわけですが

これが 私たちの魂の領域における
イエスさまのあがないだったのです

イエスさまは 罪がないのに
全人類の罪を背負い
あまりに残忍過ぎると廃止された
十字架刑に自らの意思で向かわれた

その決断に向かう心の葛藤により
私たちのために血の汗を流されたのです

私たちは 全ての思い煩い
苦しみの中での決断なども
既にイエスさまが背負ってくださっていた

あの苦悩も あの血の汗も
私たちのためだったのです

それを聞いたとき 私の中に
イエスさまの愛の癒しが
流れ込んで来ました

私は今まで どちらかというと
イエスさまの苦しみに対して
みつかいたちが慰めに来たことに
フォーカスしており

神様の支えがあってこそ
イエスさまは乗り越えられた
そのことを模範と出来る恵みに
感謝していました

私も神様からの支えにより
大変な時でも平安でいられるからです

しかし それだけではなく
イエスさまは私たちが魂の領域で
苦しみ傷付いた心の癒しのために
血の汗を流してくださった

その事を知ったときに
私の心に癒しが侵入してきたのです

そのことに心を開いた瞬間
打ち傷による体の癒しについても
今までよりもっと深いところまで
入ってきたような気がしました

また もうひとつ 霊の領域については
イエスさまが十字架に掛けられた時に
霊の目においては 蛇のように
醜かったのだという解き明かしを
昨夜の祈り会の中で聞いていました

この話を直前に聞いていたことは
本当に みこころ以外の何物でもない
全ての必要は本当に揃っています

この事は モーセの時代に
折角の神様からの贈り物である
マナのことを人々が蔑んだ時に
神様から火の蛇が遣わされて
噛まれた人々が死ぬという事件が
起きたことから紐解かれました

人々が 神様に罪を犯したことを
悔い改めてモーセに懇願した時
神様は 青銅の蛇を作り高くあげるよう
モーセに示されました

高くあげられた蛇を見たものは
火の蛇に噛まれても生きる と
神様は仰ったのでが

それを聞いても信じずに
蛇を見上げなかった者は
死んでいったのです

高くあげられた蛇

それは イエスさまが十字架に
掛けられた霊の姿でした

蛇は罪の象徴ですが
イエスさまは十字架に掛かるとき
全人類の罪を背負っていましたので
霊の目において この世において
最も罪深い姿で死なれていたのです

私たちの罪を背負って死んでくださった
その事を信じるなら命を得る
それが福音です

モーセの時代に その事が
型として示されていたのです

これがどういうことであるかというと
イエスさまは 私たちの肉の癒しのために
鞭打たれてくださったのと同様に
私たちの霊の癒しのために
蛇のように醜くなる程に
打たれてくださった ということです

霊の癒しのためにも
イエスさまは苦しんでくださっていた

その事の理解は もしかしたら
実感することは難しいかもしれませんが
しかし これを理解して受け入れることは
霊の世界での自分の姿に影響があり
それは後に 地にも現れてくると思います

そしてそれは実際に
預言の言葉として語られました

講義が終わってからは
実践として 受講生同士で
預言をしあうのですが

その時に 神様があなたを
美しくされたと感じた と
言って貰いました

この日記にも何度か書きましたが
クリスチャンになってすぐの頃に
神様があなたを美しくされようとしている

という預言を貰いました
その時はまだ過程だったわけですが
今回は 過程というよりは
美しくした 完成したという感じがする
と言って貰いました

神様が造られた美しさ
それがどのようなものか
具体的にはわからないですが

しかし神様がなさることには
必ず目的があると思うので

その完成された美しさが
どのように私の人生に現れてくるのか
期待して 楽しみにしたいと思います❤️

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