イエスさまの愛を想う

今週は受難週 そして今日は金曜日です

約2000年前の金曜日に イエスさまは
十字架に掛かられました

その日を思い巡らすのが
この週末であるわけです

クリスチャンになった頃は
イエスさまという 見ず知らずの
全く罪のない青年が
何だって こんな罪だらけの人の
身代わりになったのか という
苦い思いしかありませんでした

それは イエスさまに限らず
例えば 母親が子どものために
犠牲になろうとしたりするのも
私は好きではありませんでした

理由は そうやって頑張った祖母が
早くに亡くなったからだと思います

また 生きることにあまり
ポジティブなイメージがなく
死に対しては逆に 恐れや
ネガティブなイメージを
持っていなかったのも理由かもしれません

死んじゃう方は 大切な人のために
自分を捧げるのだから満足だろうけど
そんな風に捧げられた命を背負って
生きるのは重すぎる と思っていました

しかし イエスさまの場合は
決定的に違うところがあります

それは ただ死なれただけではなく
復活されるからです

死ぬほどの痛みと苦しみを
私の代わりに背負ってくださった
そのことは確かなのですが

しかし その後に復活をする
そこに真の救いがあるわけです

イエスさまは 十字架の上で
息を引き取る時に 完了した と
仰ったと聖書にはありますが

原語によるとそれは
完済した という意味だそうです

あがないの代価を全て支払った
という意味であり
救いが完了したという宣言です

肉の目に見える出来事を考えたら
とても悲しくて苦しいことですが

しかし この時にイエスさまが
ご覧になっていたのは
新しい命と ご自身が支払われた
代価によって得られるものに対する
喜びだったのです

その喜びとは何でしょうか
私たち一人一人の存在のことです

イエスさまが死なれたのは
私たちに 神の子どもとして
新しい命を与えるためでした

肉に苦しみ死んでいたものが
死にも打ち勝った新しい命により
喜びの子どもとして召されるのです

新しい命とはこういうものです

以前なら 自分で制しようとしても
制することが出来なかった悪いこと

自分の人生を壊すような
間違えたこと全てを
神様により 制御する自由を
与えて頂くということです

少しずつ 薄皮を剥ぐように
それは完成へと向かいます
その旅路へと足を踏み出すことが
クリスチャンになるという
選択なのだろうと思います

洗礼を受ければ自動的に
導かれるようなものではありません
むしろ 洗礼など受けなくても
神様は招いてくださいます

しかし 神様の目的は
人の支配ではないのです

神様は 私たちを罪の奴隷から解放して
選択が出来る自由をくださるだけであり
選ぶのは私たちなのです

自由を受け取ることも
自分の選択なのですが

それを望む理由を神様は
惜しげなく注いでくださる

その象徴が この十字架での
死であると思うのです

以前は なんで私なんかの為に
と 思っていましたが

今は 本当に全てを背負うほどに
私を愛してくださっていることに
心から 感謝をしています

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