咎めはしないが認められないもの

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昨夜 神様が私のある思いに対して
示しをくださいました

それは 愛する思いであれば
何でも良いものであるという
思い違いを捨てるということです

神様がくださった愛する思いではなく
人の思い 或いは背後の霊がもたらす
愛を真似た嘘があることを
神様は教えてくださいました

人を対象にしてしまうと
ややこしくなるので
このことを説明するのに
どこかの企業のFANになることで
例えて書きたいと思います

あなたが ある企業の製品が好きで
好んで使っているとします

カスタマーサポートの対応も良く
開発秘話などもとても好きで
同じような製品で安くて良いものが
他社から出たとしても
この企業を応援したいからと
離れることがなく

その会社で不祥事があったとしても
立ち直ることを願い応援し続けよう

…と 思うなら それは純粋な愛です

ですが 気に入らないことが起きた時
カスタマーサポートの対応が
いつもと違い親切ではなかったとか
他社から安くて良い製品が出たとき
そちらに乗り換えてしまうだとか
不祥事があったら自分がその企業を
好んでいることを隠したり
応援することを止めてしまうとかするなら

それはFANであるとかではなく
ただ単に自分の需要にマッチしていたから
そこの製品を使っていただけに過ぎません

しかし そういうFAN紛いの人ほど
その企業が良い時には
私はここが有名になる前から
愛用しているとか
私が育てたんだというようなことを
言いたがります

本当に愛している人は
その企業の努力や頑張りを
自分の手柄にするようなことは
しないのです

自分はこの企業を
かなり応援したなぁという
満足感は持って良いと思いますが

事実 実際にその企業を育てたのは
別の存在であって
自身はその恩恵に
あやかる存在に過ぎません

その企業に出逢えたこと
ユーザーで居られることに感謝こそすれ
自分が育ててやったなどとは
思わないのです

実がないものに虚栄心を持たせるのは
背後の霊の特徴です

神様は 昨夜あることを通して
愛する思いが何から出ているものか

神から出たものであるかどうかを
吟味するように促してくださいました

そして同時に 神様から出たものではない
思いをぶつけてきた存在を
赦すことと その思いを認め受け入れることは
別問題であることを示してくださいました

間違えを認めて悔い改めることを
神様は望まれているのであり

間違えが間違えのまま容認されることは
神様が望むことではないのです

背後の霊に付け入られる隙を
無くしていくことで 自分の人生から
敵の影響はなくなっていきますが

その過程で 敵に同意をしている人が
離れていってしまうことが 私は
とても嫌だったのですが

しかし 敵よりも私に対する
愛を選んでくれた人は
敵の影響を受けなくなっていきました

背後の霊を縛り上げる祈りをしても
人が何を選ぶかは自由であり

神様の愛より 欲を満たす敵を
選ぶ存在は 祈れば祈るほどに
離れていくものなのです

神様は 聖書の中で
どうして罪の中で死んで良いものがあろうか
悔い改めて生きよ と嘆いておられます

しかし 欲を満たし死ぬ方がいいという
価値観を選ぶ人は確かにいるのです

実際 神様が 顔の覆いを
取られるには時があります

時が来ているのに動かなければ
状況が留まらせてはくれなくなるでしょう

しかし 時が来ていない者を
責めたり裁いたりするなら
自分自身を罪の中に閉じ込めてしまいます

ただ赦すのみ なのです
赦すということは
容認することではありません

咎めない ということであって
諦めることでもなければ
間違えを容認することでもない

背後の霊が縛られ
神様のみこころとご栄光が
その人といつまでも共にあるように

そして 時が来たら顔の覆いが
取られますようにと祈ります

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