過去の不健全な考えを捨てる

今日は 今までにない平安を感じる瞬間が
何度も何度もあるので 昨日のことは本当に
素晴らしいことの前触れであったと感謝しています

そんな中で ここ数日に与えられた
いくつかの思いについて書きたいと思います

1つ目は 批判や批評についてです

自分や人に対してこうした方がいいのにとか
こうするべき ああするべきという思いや
代替案をぶつけてくることを
批判や批評というと思いますが

神様はこの件について ひたすらに
そのままで良い 人は変わる必要がないと
繰り返し示してくださいました

批判や批評の多くは 人の弱さに対して
もっと強くあるべきだという主張が混ざります

何故なら 弱さは狡さや保身など
人を傷つけるものになりやすいからです

ですが神様は その弱さに神様の栄光が
現れることをもっと期待してほしい
その人が その弱さから自分や他人を
傷つけることが神様の方法でなくなることを
願い祈って欲しいと示してくださいました

人が変わることを期待するのではありません
その人がそのままで喜びに溢れるように
守ったり逃げたりする必要がないと
安心して居られるような場を作りつつ
解決は神様に期待をするのです

次に示されたのは
自分の領域を守ることの大切さです

敵の常套手段は「ずるい」という攻撃です
自分の領域だけを守り 挑発や攻撃に
関わらないようにすることを
神様は示してくださいました

それから 罪悪感についてです
これも守ることと似ていますが
敵の嘘により間違えた自分像や
間違えた罪悪感を掴んでいる場合に
それを手放すことです

また 過去に 聖書を学ぶ前に持っていた
間違えた価値観により人生を壊してしまったことを
認めることで 過去に終止符を打つことも
区切りとして必要であることを教えてくださいました

間違えていたと薄々わかっていたけど
認めるのが嫌で避けていたことに
きちんと向き合い 間違えていたと
認めて終わりにするのです

過去はそうだった時が確かにあった
しかし今は新しい命を貰った

それは頭で理解することではなく
実際に自分の人生に適応出来る真理であると
神様は教えてくださいました

過去の私は 頼れるものはないから
自分で何とかしなければいけないと思っていました

頼ることは出来ないので何かを「利用」しなければならず
その対価を払えば利用してよいと思っていました
サービスは「利用するもの」であり
自分自身の時間を提供するのも
サービスの一環であると思っていました

自分が愛する人には無償の愛を注ぎましたが
互いに愛し合うことが出来る人以外に
それを注ごうとは思いませんでした

無償の愛を求める人は 時間泥棒だと思っていました

今示されていることは
泥棒だと言って批判するのを止めて
境界線をきちんと引いた上で
時間を盗ませないような健全な
付き合いが出来るように
自分自身が変わることが重要であり

たとえ相手が敵の足掛かりとなっていたとしても
その弱さに神の栄光が現れることを
祈ることの大切さでした

そして この不健全なサービスという概念を捨て
愛を持って仕事をし そこに得られる
受けるべき報酬を喜んで受けなさいと
神様は示しているように感じます

世の中には その不健全さを
指摘しようと思えばきりがないほどに
問題が山積しています
本当に問題だらけです

ですが それにわざわざ巻き込まれることはないのです

むしろクリスチャンというのは神様が
今の世の問題を解決するために
送られたものであるわけですから

自分自身が神様によって健全なものへと
建て上げられることによって
問題は 神様の介入を得ることが出来るのです

私が自分の問題と向き合わなければ
神様は私を通して解決しようとする
問題に介入出来ません

まずは自分自身の領域のよき管理者となること
愛についての理解と並行して
そのことを強く示されたのでした

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