愛について考える

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ここ数日 愛するとはどういうことか
について色々な角度から神様に
色々なものを見せて頂いていますが

今朝 起きてすぐにスマホを開くと
飛び込んできた2つ記事(漫画)がありました

どんなストーリーかは重要ではないので
概要しか書きませんが

ひとつは赤ちゃんが泣かないのを見て
思いを巡らす人のお話
ひとつは我が儘に過ごして堕落した大人が
自分が置かれた環境がどれだけ恵まれていたかに
眼が開かれて立ち直るというお話です

まず最初の記事を読んだ後
子どもはどういう時に泣くのか
と考えました

すごく平たく言えば 子どもは
満たしを要求するために泣くのだと思います

お腹が空いている
お漏らしをして気持ちが悪い
構って欲しいという欲求です

赤ちゃんのうちはそれに対して
どうしたら満足して泣き止んでくれたり
笑ってくれたりするだろうと
世話をする人がいれば きっと
健全に成長していくのだと思います

その「世話をする思い」というのは
無償の愛が土台に他なりません

ですが 泣いても(意図的に)無視されたり
泣くことに対してネガティブな感情を抱かれ
それをぶつけられたら子どもはどう育つか

愛という必要な栄養が注がれなければ
きっと真っ直ぐは育たてないだろうと思います

しかし 仮に愛を注がれて育ったとしても
満たされて終わりということはあり得ません

成長するにつれて より複雑な
自我や欲求が生まれますから
人との摩擦も含めて
思い通りにいかないことも出てきます

その中で忍耐を学んでいくことになって
豊かな人格形成がなされるのだと思います

もし我が儘放題に醜く成長するのであれば
それはそれで不幸なことだと思うのです
堕落した大人の話を読んでそう感じました

人からどのように向き合ってもらえるかに始まり
自分の感情とどのように向き合うかへと発展し

文化 尊厳 善悪 感受性… 他にもありそうですが
そういったものを学んだり 自分の内に
育んでいくのだと思います

忍耐から品性が生まれ 品性から希望が生まれると
聖書に書いていますが 逆を言うなら

希望がない人や 希望と欲望を取り違えている人
欲望さえ満たされれば(満たしてあげれば)
満足すると思っている人というのは
もしかしたら忍耐や品性の段階での成長が
まだ未熟な子どもなのかもしれません

成熟に年齢は関係ありません

若くても(幼くても)熟している子はいますし
患難に対する向き合い方を間違えた大人は
成長することなく同じところを
ぐるぐると回ることになります

それをただ 回避するのではなく
味わい尽くして希望にまで
昇華させること というのは
年齢に関係なく誰にも必要なことです

が 今 私がこのことを考える一番の理由は
訓練中の人や 訓練がなっていない人との
向かい合い方がよくわからないからです

どう対峙するのが自分における
正解なのか というのが
自分の中で固まっていないのです

若い頃 訓練が出来ていない人の
突飛な行動を よく
叩き落としちゃっていたなぁと
反省とも違う苦い気持ちで
思い起こすことがよくあります

また 自分自身が幼い頃
受け入れて貰えなかったことに失望し
人を頼らなくなったことや
希望を抱かなくなったために
生じた不具合についてもです

この苦い思いを自分の中で
手放す必要があるのです

愛していると言いながら
相手を自分の思い通りにしようとするのは
未熟で稚拙な証拠であり

成熟した愛は相手のために犠牲を払います

しかし 今すごく思うところは
犠牲の払い方を間違えれば
相手の成長を妨げてしまうということで
引いていえばそれは愛ではないと思うわけです

愛するとはどういうことなのか
どういう時に人は 相手を愛するようになるのか

そもそも愛とは何なのか
結論から言ってしまえば それは
神様から溢れ出る命の泉です

ですが 自分自身の愛を育まずに
ただその通り管としていることを
望まれているとも思わないわけです

神様は 私たちの人格を尊重し
一人一人に違ったテーマを用意されています

神様は私に 愛についてとても深いところまで
教えてくださろうとしていると感じます

それは 私が数年前に 私のために祈ると
愛が注がれていると感じるよ と言われても
全くそれを感じることが出来ず

わかるようにしてください と
叫んだことに対する答えであるのかもしれません

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