自分が受けた分が流れ出る

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神様と出逢い一番自分の中の
意識を変えるよう促されたのは
「責任」についてでした

結論から言ってしまえば
自分の言動の全ての責任を
背負い切ることというのは
到底無理なのですが

以前の私は 自分が責任を
取れるかどうかをよく考えて
言動を決めるところがありました

自分の欲求や望みを持つことより
自分で責任を取れる範囲から
出ないことの方が安心であると
思っていたわけです

しかし 神様は私の背負っていた
責任をひょい と取りあげて
それはわたしが背負うから
代わりにわたしの示すことをやりなさい

と 仰いました

自分に責任が取れない領域に入るけど
神様が示されたことをすると
どれ程に素晴らしいことが起きるか
わかってしまったのです

具体的に何が起きるかがわかるのではなく
私に想像つかないような
素晴らしいことが待っている
ということがわかったのです

自分で責任を背負おうとして
不信仰になることは
私にとって馬鹿らしいこと
この上ないと思いました

自分の存在の責任を
背負わされるだけの人生に
喜びも希望も見出だせなかったからです

勿論 神様は聖書を通して
御恵みの原則なども教えてくださいます

しかし 神様がしてくださった
一番素晴らしいことというのは
私たちが到底背負い切れない
私たちの存在に対する責任を
全て担ってくださったことです

それは理屈ではなく
実を伴うことであり

物質的なことから精神的なこと
目に見えない領域のことさえも
全てにおいて真実であるということ

それが 素晴らしいのです

教えというのは
最初にあるのではなく
求めるときに用意された
マニュアルのようなものに感じます

勿論 最初からマニュアルに沿って
丁寧に間違えなく生きたい という
人にとっては至極の書物でしょうし

それを継承する召しを受けた人にとって
扱いは全く違うと思います

私にとって聖書は
全ての疑問に対する解決でした
それまで 誰に尋ねても
何を学んでも解決しなかったことについて
全てが書いてある書物でした

それは 自分が納得するという
意味ではありません

真理はこうだったのか と
苦々しく思うしかないようなことも
たくさんたくさん書かれていました

しかし その根拠が全て
この地を 全てを創られた方の
愛の深さと素晴らしさから
出ているものであったから
受け入れることが出来ただけです

それを受け入れる以外に
良いものがないとわかっただけです

自分で責任を背負うことより
神様の手に委ねることの方が
素晴らしい というある種の
期待であると同時に
良い意味での諦めでもあるわけです

ああ もうこんな醜悪な責任問題と
向き合わなくていいのか
という解放でもあるわけです

敵の嘘 というのは
自分の人生の責任は
全て背負うべきだ という思いです

敵は その考え方を利用して
人から地を治める権威と
人にあった約束を盗んだので
その範囲に人を閉じ込める必要がありました

しかし イエスさまは
ご自身が為すべきことを
完成されたことによって
死にすら勝利をされたのです

私が受けたものは
その勝利と解放です

頑張って聖書を読んだから
頂けた恵みではありませんし
良いことをしたから
頂けた恵みでもありません

もし 私が何か努力したとすれば
孤独になっても神様の示しを
掴み続けたことや
自分の持つ全てを捨ててでも
神様についていったことです

しかしそれは 私が捨てたいと
思っていたものだから出来たことで

私が過去に捨ててしまった
大切なものは むしろ神様により
取り戻されていますから
捨てればいいというものではないし
捨てることによって得たと言う方が正しく

それは 聖書にこう書いてある通りでした

マルコの福音書8章35節
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしと福音とのためにいのちを失う者は
それを救うのです。

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