人の義(自己義)を砕かれる神

昨夜ぐらいから 神様から
繰り返し語りかけられていると
感じていたことがありましたが

今日のQTが正にその内容だったので
このことだったかぁ と思いました

聖書箇所は 純粋な心ではなく
党派心から福音を伝える人が
いたとしても 結果として
福音が伝えられるのは良いことだと
パウロが語るところでした

クリスチャンでなくても
神様のみ恵みを運ぶ器として
用いられる人はいます

また クリスチャンでなくても
神様の預言の通りに行動する人もいます

神様は 最高権威であり
背後の霊たちはそれに
従わなければいけません

ですから 神様以外の霊に
影響を受けている人であっても
神様のみこころを反映したような
行動をとることはあるのです

しかし私は ある意味単純で
神様のみこころを為す人はみんな
神様のことを知り愛することが
出来る人だと勝手に思い込んでいました

しかし 実際は全くそんなことはありません
霊的な行動をするからといって
その人が神様だけを見るようになるとは
限らないのです

逆も勿論あります

神様を慕い求めているからといって
霊的に神様のことを仰ぎ見ているとは
限らないのです

探し求める人は見つけます
聖書に書いてある通りです

しかし 探すことなく
偽物に翻弄されることもあるわけです

以前 記事にしましたが
聖書には 霊の声が全て良いものだと
勘違いせず 神の霊から出たものか
きちんと試すようにと書かれています

しかし その区別をしていなくても
それどころか 心が神様に向いていなくても
神様は 事を為すことが出来て
全てを益にすることが出来る方なのです

私は 心が良かろうが悪かろうが
同じ方向に向かっている人は
誰でも仲間だと思ってしまうのですが

しかし実際は全然違うということを
何度も経験して その度に
とてもがっかりしてしまっていました

ですが 神様は
そのようにがっかりしてしまうと
愛が流れなくなるよ と
示してくださいました

私たちは互いに赦しあい
愛し合えばよいのであり
そこには敬虔と兄弟愛と愛とが
加わっていけば良いわけです

本当は もう少し違う角度のことも
神様は語られたのですが
まだ自分の中で それを誤解なく
人に噛み砕いて伝える自信がないので
書くことは控えますが

私がこだわってしまっている
潔癖な部分を 神様は
溶かして砕かれようとしています

こだわりとか潔癖とかいうのは
ある意味 自分自身を義とすることです

少し論点は違うのですが

イエスさまが ザアカイの客となったとき
人々は イエスさまを悪く言いましたが
人目を恐れることというのは
この時のイエスさまを避けることだ

という表現をすることが
自分の今の体験に一番近い気がします

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