試練を与える神

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今日は ある姉妹に
神様の試練について
話をする機会がありました

母教会の牧師さんがお話されていたのですが
ヤコブの手紙1章2節にある

さまざまな試練に会うときは
それをこの上もない喜びと思いなさい

という聖句の原語を調べると
何十年来の旧友に逢うかのように
喜び叫べというニュアンスで
書かれているのだそうです

その話をすると でもイエスさまは
試みに会わせないでくださいと
祈るように話されたよ~と言うのですが

私自身の解釈ではありますが それは
自分が欲目や誘惑に負けて
不要な試みに会わせないでください
という意味ではないかと思っており

もし本当に 全く神様からの
試みがなかったとしたら
平坦でとてもつまらない人生で
全く人としての成長もなければ
厚みもない人生になると思います

こんな試みには二度と会いたくないです
と 過ぎた後に思わず言ってしまうような
大変苦しい試練もあることは確かですが

しかし 通り過ぎた時に間違えなく
神様との関係から自分自身の心
そして状況なども全てが良くなっており

一度 それを味わったら
試練が嫌だなんてことは
誰も言えなくなると思います

この話をしている時に
りゅうくんが帰宅したのですが
家に入る前に アブラハムが
イサクを捧げるように言われた時が
思いに示されたそうです

アブラハムがイサクを捧げる試練は
正に 喜ぶべき試練だったのです

神様は イサクを通して多くの国民の
父とすると預言されましたから
結婚前のイサクを捧げるという試練は
例えイサクを捧げたとしても
神様の約束は間違えなく成就すると
信じていなければ出来ないことでした

勿論 それほどの試練というのは
神様とアブラハムとの信頼関係の上に
成されたことです

100歳で子どもを授かることについては
心の底から信じていない様子が描かれ
イシュマエルが産まれた経緯が
正にその結果であるわけですが

しかし イサクを捧げる試練の時には
アブラハムは神を信頼していたのです

但し どの試練も歓迎するべき
ということでは勿論ありません

上述したように 不信仰から来る試練や
敵の誘惑に負けた時に通る試練は
歓迎するべき試練とは全く話が違います

その様な試練は 主の祈りにある通り
「試みに会わせないでください」と
祈るべきであると思います

私が普段 最も熱心に祈ることは
余計なことを言ったりやったりしないことと
言うべきことややるべきことを
避けることなく全て出来るように です

口が行いが破れ口を作り
余計な試練を招くからです

しかし その祈りをしていても
何かやらかしてしまうとしたら
それは 神様からのみ恵みへと
繋がっていくことだと信じています

それこそが 歓迎するべき
試練であるように思います

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