愛を学ぶ時

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今日はクリスマス
本当のお誕生日ではないですけど
イエスさまの誕生をお祝いする日です

(本当の誕生日は不明です)

イエスさまは誕生日プレゼント
何がいいのかなーと尋ねてみましたけど
にこにこした雰囲気だけで
返事は貰えませんでしたが(苦笑

私たちがたくさんのプレゼントを
頂いてしまいました

昨日で終わりじゃなかったのねー
と 思いましたが 本当に
愛されているなぁと実感出来て
とても嬉しかったです

たくさんのプレゼントを手にして
りゅうくんと歩いて帰っていると

澄子は 愛があるから戒めを託されて
僕は愛がないから愛を託されたと思う

と 言いました

(正解に言うと戒めを託されたわけではなく
私の言葉で悔い改めが起きると示されただけで
私が何かを知って戒めるとかはしませんが)

ですがそれを聞いて それを言うなら
私だって 何が正しくて何が間違えなのかを
全く理解出来なくて それを神様に
求め続けたから神様から頂けたのだ

自分で何が正しくて何が間違えているとか
判断なんてしたくないし
そんなことの判断に責任を持ちたくないから
神様が教えてくれることしかわからないことを
私は幸せに思っている と言いました

りゅうくんだって 愛がないから
愛を知りたいと求めたわけだし
神様だって りゅうくんが神様から
離れないようにするために最初から
りゅうくんに愛を与えなかったんじゃない?

とも言いました

それに これが愛だといって
自己愛を押し付けてくる人嫌でしょ?

と 言うと りゅうくんは嫌だと言いました

そうなのです 結局のところ
神様はそれぞれの役割のままに
それを求めるようにそれぞれの人を
造られているのだと常々思います

話は変わりますが

自己愛というのは
自分の愛こそ本当の愛だという
自己義であるように感じます

しかし自己義というのは
自分の恥を覆い隠すための
無花果の葉のようなものです

愛と言いながら 自分自身の本心を
覆い隠して転嫁する姿は美しくありません

悲しい時に 悲しいと表現すること
寂しい時に 寂しいと表現すること

そういうのを人は美しいと感じます

ですが それを素直に表現出来ずに
あなたのために言ってるんだとか
愛してるんだとか言ってしまうなら

そういうのは 本当に醜いです
過去の自分を省みて 本当にそう思います

りゅうくんのように
自分に素直にもなれず かといって
偽りに満ちた愛という言葉に
頼りもしないことは
愛がないのとは違うと思います

愛を知らず しかし自己義を憎むから
りゅうくんは苦しんでいたと思います

しかし本物の愛は
神様からしか学べません

そして本物の愛は 全てを覆うのです

りゅうくんを見ていると
その事を本当に痛感します

今 私もりゅうくんも
愛を学ぶ時であるのだと思うのです

その事に 本当に感謝をします

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