神様だけに同意する

敵を愛し 迫害するもののために祈れ

私があることを思い巡らしていると
りゅうくんが突如 この聖句を言いました

今日 会社で階段を降りていると
ふと 何故私の祈りがいつも
想像以上の形で叶うのか

それどころか もっと高いものを
求めて祈るように促されることが
多い理由を神様から示されました

それは 愛とは何か
敵を愛するとはどういうことなのかを
知る という話になります

クリスチャンになってすぐの頃
愛の定義を間違えていたので
私は人を愛することが出来なかった

何故なら母は 自分の言うことを
受け入れてくれることが愛だと
思っている人だったからです

母の中には 自分の思いを満たす人が
自分を愛してくれているという
勘違いがあったので

そんなの彼氏とか旦那に求めてくれ
私にそんな愛を求められても無理だし
もしそれが本当に愛であるなら
私はあなたを愛しません と思っていました

しかし 思いを満たすことは
本当に愛なのでしょうか

これは極論を言うなら
誰かに酷い目に遇わされたとき
仕返しをしてくれる人を喜ぶようなもので
これに応答してしまうと共依存に陥ります

要するに 私を縛っていたのは
共依存へと引きずり込もうとする人の
間違えた愛の定義だったのです

クリスチャンであっても
この間違えをしている人は多くいます

神様の愛は 酷い目に遭わされた時に
相手を赦し 相手のために祈りなさい
と 教えています

神様に やりなさいと示されたことを
やる過程では

それをやれば痛い目に遭うけど
痛い目に遭うことにより
心の中の悪いものが改まり
その悔い改めに応じて
神様の報いがある

というものがあります

しかしその体験をする中で
神様の言うことをやったのに
酷い目にあった と
神様に対して怒りを持ったり

酷い目に遭わせた人を裁いたり

私は間違えていない
神様が間違えている と思うとき
自体は硬直化します

大抵 そういう場合 神様は
酷い目に遭わせた人について
祈って欲しいと思われています

神様は この心を改めて欲しくて
この体験に導かれたのか!と
気付いて悔い改める時に
ブレイクスルーが起きます

逆のケースもあります

自分は悪くないのに
自分が悪かったと思うとき
物事はやはり停滞してしまう

悪くなかったのか!という
悔い改めがある時に
ブレイクスルーが起きるのです

悔い改めというのは
神様の方に方向転換することであり
悪いことを改めるという
意味だけのことではありません

この世では良いとされていても
神様の御心ではないものを指摘され
悔い改めるということも多くあります

悔い改めとは この世の常識から離れ
神様の常識を基準に生きることです

普通こうだねよ と言ってしまうと
悔い改めによるブレイクスルーは
起きなくなってしまうのです

神様に同意をすることには力があります
というより そのことにしか力なはいのです

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