義なる神様の憐れみ

先週 金曜日にパンクをしてしまい
土曜日に修理をした自転車ですが

日曜日は問題なく動けて
無事に教会に行けたのに
月曜日の朝になったらまた
パンクをしていました

パンク再発自体は驚くようなことでもなく
先月パンクした時に 植物のトゲが
たくさん刺さっていると言われていて

1ヶ所修理をしてもまたすぐに
穴があく可能性があるのは
わかっていたのですが

日曜日は往復で10kmという
結構な距離を走っていたので
その間 パンクをせずにいてくれたのは
正に奇跡だったと思いました(^_^;

必要は いつも充分に備わっている

しかしそれは ただぼーっとしていれば
与えられるものではなく 条件があります

聖書には 神の義を第一にする時に
必要は全て与えられるから
必要について何度も繰り返し
祈る必要はないと書いてあります

御国が地に現れ 神様の栄光が
この地においても誉め称えられるように

どんな時でも むしろ
とても感謝出来ないような時にでも
その後に来る報いを思い
喜んで感謝をするように

しかし その根底には
暗黙の了解として 謙遜が求められます

もし 自分が神様に選ばれており
恵みがあることが当然だと思うなら
イエスさまは 選びの民について
このように仰有られています

マタイの福音書3章9節b
あなたがたに言っておくが、神は、
この石ころからでも、アブラハムの
子孫を起こすことがおできになるのです。

神様は 一度定められた約束を
決して違えることはありません

しかし 受ける側の心が
その約束から離れるなら
神様と距離を作ってしまいます

イエスさまが己の罪の身代わりとなり
死に そして復活したことを信じる人を
ご自身の子として迎えてくださるという
約束は決して変わりませんし

一度子として受け入れてくださった後に
見捨てるということも決してありません

しかしもし 親が背負ってくれるからと
悪いことを辞めないような子がいたら

例えば家のお金を何度も盗んで
悪い友達と遊ぶような子であれば

親は 心を鬼にして子を家から追い出し
悪い友達と縁を切って 心を入れ換え
更正することを決断するまで
家に入れなくなるでしょう

子を見捨てて出ていけと言うのではなく
心を入れ換えて戻ってきてくれることを
願って言っているのです

既に イエスさまは全人類の
罪の身代わりとなってくださいました

しかし 罪から離れることを決めて
救いと約束を受け取るかどうかの
選択は人にあります

神様は 既に為し遂げてくださいました
あとは 人がそれを選びとるかどうかなのです

以前の私は 全く どんな存在にも
自分が受け入れられることを
信じていませんでした

誰かが助けてくれるとは思っていなかったし
人に期待もしていませんでした

そしてその理由は 今になり
よくわかるのです 事実そういう環境で
私は育ったのだと実感しました

人には力がありません
ですが 神様は違います

神様は全てをお持ちであり
どんな問題よりも大きく
全てを解決出来るだけの
力がある方であり

ご自身にもっと期待をして
頼って欲しいと仰有ってくださるのです

マタイの福音書9章12b-13節
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、
病人です。『わたしはあわれみは好むが、
いけにえは好まない。』とはどういう意味か、
行って学んで来なさい。わたしは正しい人を
招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

私には 神様が必要です
私自身には何の力もありません

私に出来ることは 神様が
やって良いと許可して
守ってくださらなければ
たちまち悪いものの
餌食となってしまいます

私は神様なしでは何も出来ないし
神様がいなくては喜びの中で
安心して過ごすことは出来ません

憐れみ深く 義である神様が
全てを創られたこと その事にしか
私の希望はありません

その事に 本当に感謝します

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