死に生き返り与えられる報酬

昨日 誰のために仕事をするのか
ということを書きましたが

過去に 私は仕事をする上でも
誰かの助けをする上でも

自分が納得していなければ
キャパシティを超えたときに
消化しきれない 受け止めきれないと
思うようなことが何度もありました

人の意見に流されてしまうと
何か嫌なことがあったときに
人のせいにしてしまいます

しかし 自分が納得して選んだなら
人の意見に流されたとしても
自分が見極める力がなかったことを
真摯に受け止めることになる

しかし どんなに酷い目に遭っても
どんなに傷付けられても
性懲りもなく また同じ思いが
涌き出ることがありました

どんなに傷付いても 傷付けられても
幾度となく同じ事を繰り返す

その時に 愛は死なないんだなぁと
思いはしたのですが しかし

神様と出逢う前は それを繰り返すことで
どんどん傷を深めてしまい
最後には立ち上がることも
出来なくなってしまうこともありました

そして神様に出逢った時に
もうこんな思いをするのは嫌です
もう離れさせてください
私の思いを変えてくださいと祈りましたが

しかし その祈りはむしろ反対に作用し
私の思いに入り込んでいた
嘘つきがどんどん締め出されていき
傷付く原因となっていたものが
消えていきました

実際 同じ人から同じ仕打ちを受けても
平気な人と 傷付く人がいます

それに最初に気付いたのは
同じ環境に育ったはずの妹が
私と同じ体験をしていながら
全く違う受け止め方をしていることを
知ったときでした

人によって 生きるテーマが違うんだ
と 思ったときでしたが
その生きるテーマというのが
その人の愛だと思うのです

愛を拗らせてしまうと
生きることが苦しくなってしまいます

敵が一番攻撃をしてくるところもそこで
その攻撃自体は多分 クリスチャンになる前も
その後も変わらないのですが

神様と出逢い一番違ったことは
保身を解いて 神様の守りに入るよう
導かれたことであり

弱さに栄光を現してくださると
本当に実感したのですが

弱さの裏にあるもの
神様が栄光を現してくださるところには
必ず愛があり 神様はその愛に
報いてくださっているのであって

思いを叶えてくださるわけではなく
愛による人格を建てあげてくださっていて

それは 最初からそのように
私自身を創られておられたのだろう
神様のイメージがそれなのだろうと
思うところなのです

愛は死なない

イエスさまも ご自身を殺した者が
悔い改めるために
生き返ってくださいました

その事により神様の選んだ者は
神様に立ち返る機会を与えられました

イエスさまの死と復活は
イエスさまを死に追いやった者のためであり
イエスさまの報酬は その
死に追いやった者たちの中で
神様がイエスさまに与えられると
あらかじめ決められた者なのです

どんなに このような嫌なことは
もう二度とありませんようにと祈っても
それが神様のイメージ通りであるなら
変えられるのは自分の方であるわけで

そして その報酬は
神様が自分に与えようと
あらかじめ定めている人です

愛するべき人々
神様の愛が流れるところです

同じことが起きても二度と
嫌だと思わずに済むように
古い自分は死んで
新しい命が与えられるのです

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