愛がなければ意味がない

今日は りゅうくんがこの聖句を
受取りました

詩篇68:19
日々にわれらの荷を負われる主は
ほむべきかな。神はわれらの救である。

例えばイエスさまが産まれた時
ヘロデ王は イエスさまを殺すべく
産まれると預言された地域で
産まれた子どもたちを皆殺しに
するように命じましたが

神様の示しにより イエスさまの父母は
エジプトに逃げていました

神様は 人が立てる恐ろしい計画を
潰すことはされませんが

しかし エステルのように
人が立てている恐ろしい計画を
知って 潰す働きをさせることもある

それがエステルの切なる祈りによるのか
その場所に エステルを置かれた
神様によるのかはわかりませんが

恐らくどちらか ではなく
神様とエステルの両方が揃い
初めて悪が滅ぼされるという
栄光が現れたのだろうと思います

モーセもそうです
奴隷としてではなく王族として育ち
人々を救う働きのために用いられましたが
もし モーセが神に協力せずにいたら
エジプトで起きた恐ろしいことは
起きなかっただろうと思います

正しいものは過ぎ越され
悪いものが嘆くことになる

しかし そこにはとりなすものが
必要になってくるのです

イスラエルのために
とりなす者がいなくなった時
神様は 深い悲しみと共に
天に帰ってしまわれました

誰か イスラエルのために
祈る者は現れないのか と
3年半も待ったのに 祈る者が
現れなかった

そして神様がいなくなると
イスラエルにあった栄光は
全て敵に打ち砕かれてしまいます

色々なことを体験する中で

この事を祈ってくれる人は
他にはいないんだなぁ と
思うようなことがあると

それは確かに自分自身に
降りかかって来ることを
何度か体験しました

牧師さんたちも よく
祈りは本当に怖いと仰っていて

刈り取り手を送ってくださいと祈ると
自分がそのように召し出された

若者の教育のために助け手を
送ってくださいと祈ると
自分がそのように召し出された

という証を聞きました

以前 誰のために仕事をするのかを
掘り下げるワークショップを
していたことがありますが

誰を愛するか 誰のためにするか
その思いを神様は用いてくださるのだと
本当に そう思います

しかし人々が祈らないようなことを
祈るということは 簡単に言えば
祈る気にもならないような
酷い状況がある ということでもあります

神様の愛と神様の助けがなければ
とてもじゃないけど乗り越えられないような
そんな 酷いことがあったりするわけです

例えば 孤児を助ける活動なども
そうだと思います

どんなに助けたいと思っても
そこに全てを投じる覚悟をもって
神様と共に歩き続けることが
出来る人ばかりではない

更に言うなら 自分が身を
投じることが出来ることというのは
そんなに多くあるわけではなく
どこかひとつだけであったりもするのです

あちこちに中途半端に
手を出して何かを完成させることが
出来るような軽い事などないのです

ですが 自分が置かれた場所で
黙々とやるべきことをしていると
必ず 人の助けや支えがあります

置かれた場所で 自分が
神様から与えられた仕事をこなすこと

それに勝ることはないと思います

今日 神様はQTの中で
あなたの愛による行動は
わたしの誇りであると
示してくださいました

どんなに傷付いても大変でも
それが神様にとっての誇りとなるなら
それに勝る仕事はありません

そして そのような仕事というのは
必ず 人からの助けもついてきます

それは恐らく イスラエル人が
エジプトから出ていくときのように
神様が好意を与えてくださるから
なのだと思います

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