神様の財産の管理者という仕事

ある 困った人がいました

その人は ルール違反ばかりしているので
その人の回りはいつも喧騒ばかりです

しかし 聖書にはこうあります

箴言9章8節
あざける者を責めるな。おそらく、
彼はあなたを憎むだろう。
知恵のある者を責めよ。そうすれば、
彼はあなたを愛するだろう。

では この人を愛するには
どうすればいいのでしょうか

その人が 神様の愛により
目が開かれることを祈ることは出来ます

ですが 愛するというのは
そういうことではない

行って 食べて暖まりなさいと
何も持たせずに行かせたら
それは罪となるわけです

そこで考えてみます

イエスさまはこの困った人を
どのように愛されているのでしょうか

答えを言うなら
身代わりとなり罪を償ってくださった

と なります その困った人のためにも
イエスさまは死んでくださったのです

であるとするなら
その人をもし愛そうと思うなら
その人の罪を肩代わりして
自分自身が償う ということになります

しかし それが出来るのは
罪を犯したことがない
イエスさまにしか出来ません
罪がある人は 身代わりにはなれない

しかし もしクリスチャンが
イエスさまのあがないにより
罪がないものとされているのなら
身代わりになる資格があるということです

資格はあります
あとは愛があるかどうかであり
神様が 愛のチャレンジをされる時に
応えることが出来るかどうかです

しかし どんなに気持ちがあっても
忠実ではないものは管理者とはみなされない

肩代わりしたいです と神様にお願いしても
それはあなたのやることではないと
示されたら 勝手に肩代わりは出来ませんし

出来ればこの件に関わり合いたくないと思っても
あなたがやりなさいと示されたら
やらなければいけません

赦すこと とても愛せないような人
裁いてしまいたくなるような人の罪を
あなたがあがないなさいと示された時に
指示通りに出来なければ
良き管理者とはみなされないのです

私たちの全ての持ち物は
神様から預かった預かりものです

本当にそのことがわかっているなら
忠実になることは出来ます

しかしもし 自分のものやお金を
自分が努力して手に入れた
自分自身の所有物と思っていたら

人や自分に迷惑をかける人のために
自分が支払うなんてと思うかもしれない

しかし 愛したいのに
愛し方がわからないと思っているなら
その役目が来る時に
神様の喜びも一緒に来るのです

愛するということは
自分の力だけでやろうとしたら
命がいくらあっても足りません

ですが あがなうことが出来る方が
既にあがない 全ての原資を用いて
私たちを通して神様の愛を現してくださる

それが 神様がご計画されたことなのです

私たちが目指すのは
神様の財産の良き管理者であり
神様の愛の良き通り管

そしてそれは いつなくなるかわからないような
この世の仕事とは違う

永遠の仕事なのです

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