誰の証人でいたいのか

今日は 洗礼槽での再洗礼を受けることが出来ました

最初の洗礼は滴礼(頭から水をかける洗礼)だったので
洗礼槽できちんと洗礼を受けたいなぁと
ずっと思っていたのですが やっと実現しました

洗礼を受けてから 何人かの人と
話をする機会があったのですが
話しをしながら どこか引っかかるところがあり
神様に祈りながら家に帰りました

そして示されたのが 表題の
「誰の証人で居たいのか」ということでした

これは 赦すという話とも
関係があるのかも知れませんが

もし 自分が誰かに傷つけられて
そこから解放されていないとしたら
自分が誰の証人であるかというと
「傷つけた人の証人」になっているのです

○○さんが傷つけた傷がこれです と
その人の証人として歩いていることになるのです

心の傷 そこから来る精神的なストレスや病
トラウマなどもそうですが
全て 傷つけた人に力があることを
認め続けていることになるのです

しかしもし 誰かを裁判官に訴えて
その人が悪いという判決を出して欲しいと
願うなら 自分の傷がなくなっては困ります

自分がこれだけ傷付いたのだから
この人は有罪になるべきだと訴えるなら
自分の傷は癒えてはいけないことになるのです

もし訴えるまではいかなかったとしても
「この人がつけた傷だ」と掴み続けるなら
あなたはその人の証人として生きることになってしまう

神様は その「事実」から解放されて
救われた神様の証人となって欲しいのです

解放を求めるというのは
自分がどれほどに苦しみ傷付いたかを
証言する人生から

神様がどれほどに自分を愛して下さり
苦しみや痛み 辛い 悲しい思いから
救って下さったかを証言する

その証人になることを求めることと
誰かが自分に酷い目に遭わせたという
証人であることは両立出来ないのです

神様の力の証人になろうとする時
敵の騒々しさはかき消されるのです

聖書の中で ヨセフはこう証言をしています

創世記 41:51
神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった

どんなに神様が良くして下さったって
自分が受けた仕打ちは変わらないと思うなら
解放されないのです

いつの間にか気にならなくなった
あんなに自分を思い煩わしていたのに
神様の恵みにより患わされることがなくなった

また どんな嵐の中であっても
神様がいて下さるから気にならなくなった
平安から出ることがなくなり
神様を賛美することが出来ると証言するなら
あなたは 神様の力の証人となるのです

実はここ数日 神様からある訓練を受けており
神様は私の周りに突如として喧噪を起こされる

以前の私であれば どうしてこの人はこんなに
すぐに敵の足場になるのか と
人の弱さの方に目が行っていたのですが

しかし最近 人を見ずに霊的な物だけを見るようにと
意識を切り替え 背後の霊を叱りつける!と
宣言をすると 喧噪が一瞬にして静まるようになりました

そうやって 霊的に静かになると
自然と神様への感謝と賛美が出て来るのです

先日は りゅうくんが私がやっていたゲーム画面を見て
おかしなテンションで騒ぎ立てたので
背後の霊を叱りつけました

後でその時のことを聞いてみたのですが
一瞬 自分が怒られたような気になったそうですが
その後に りゅうくんにも平安が来たのだそうです

自分だけではなく 踏み台になっていた相手も
平安を得ているのです

その経験を積むにつれて
敵の存在は認識する必要があるけど
敵に目を向ける必要は全くなく
即座に出ていけ と言えば良いんだなぁと
思うようになりました

何より 自分が神様以外の証人になる隙が
一瞬でも出来るのは嫌だという思いが
とても強く与えられるようになりました

私は 自分の人生 過去も現在も未来も
全てに置いて 神様だけの証人になりたい

だから 全ての領域を神様に
委ねたいと思います

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