失敗からの本当の学び

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最近 何人かの人が経験していることを見て
祈り願うこと というのは本当に力があると感じています

力がある というのは私たちに力があるわけではなく
神様がその祈りや願いを顧みてくださり
力を与えてくださるという意味です

しかしそれが 神様のご計画であったり
御心であるとは限りません

神様はこうした方が良い と示されても
本人が 嫌だこうして欲しいと強く願うと
神様はそちらを叶えてくださるのです

しかし 神様の道ではない方向で
待っているものが何かと言えば

放蕩息子が体験した出来事なのです

ある出来事がありました

それに対して私は 違うと思いました
こうした方が良いという明確な
別のビジョンが与えられていました

周囲の人は確かにそれを願い求めていました
そして憐み深く優しい神様は
その願いを叶えられたのです

しかし 事態は一変しました
その願いを手放してもいい!と
思わず叫んでしまうほどの
辛い出来事がその人に起きたのです

蓋を開けてみると 神様が私に対して
「これをやってはいけない」と
明確に示されていた事柄へと
いつのまにか すり替わっていました

その瞬間 神様は私をそこから切り離すと宣言し
私が最初に受けていたビジョンの方へ
舵を大きく切られました

そして今 願い求めていた人に
今 それをまだ欲しいと思う?と聞くと
いやもういらない と言います

私は 過去にもこういう体験をすることが
とてもとても多くありました

それはクリスチャンになる前からです

クリスチャンになり 預言の賜物という
存在があることを知り
祈りによるサポートをすることが
出来るということを学びました

しかし 人が強く願っていることに対し
神様はこう示してるよーと言うのは
本当に気が引けるものです

言う必要はないんですけどね
祈ればいいのですけど
祈るのも気が引けるのです

この「気が引ける」というのは
ある面では課題ですが
ある面では その思いがあるからこそ
この賜物を管理する者として
任命されているとも言えます

もし この思いがなく管理者になっていたら
人の自由意志を支配することになったり
何より 慎重さを失うからです

この慎重さがあるからこそ
神様に伺わなければ自分勝手に
決して動くことをしないのです

話を戻しますが

痛い目に遭うことで学ぶ とよく言いますが
これは聖書的な考え方ではありません

聖書的な教えというのは
自分の思いを横に置き 従順になることで
安全と繁栄が約束されるというものです

私は 約束があるなら遠回りせずに
真っ直ぐそれを掴みたいと思いますし
失敗から人が人の知恵で学べるものなんて
本当は何もないことを知っています

葛藤があっても飛び込めば全て
良いことに変えてくださる神様だという
絶対的な信頼を持っています

ですが 全ての人がそうではありません
人の知恵を称賛し 人の知恵に頼る人はいます

勿論 痛い目に遭うことで
従順の大切さを学ぶことは出来ますが
人の知恵というのは 多くの場合は保身を学ぶことです

保身を学ぶと 同じ出来事が
何度も何度も繰り返されるようになり
囚われてしまう 呪縛となってしまうのです

しかし神様は そうやって自分で自分に
かけてしまった呪いを打ち砕いてくださり
人の次元よりもはるかに高い次元へと
連れていってくださいます

失敗からの真の学びは
へりくだり 従順さを学ぶことです

放蕩息子が家に戻ったように
神様の元へと戻ってきてほしいのです

保身ばかりを学び 何度も同じことを繰り返し
溺れそうになっている人を
神様は解放したいのです

しかし それは本人が望まなければ
起こりえない解放です

神様は 失敗をしても悔い改めれば
助けてくださる神様であり
ずっと待っていてくださいます

解放を 祈ります

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