イエスさまのみこころ

教会のある勉強会に参加した時
(多分リーダーのための勉強会だったと思いますが)

イエスさまが 私を背負って神様のところに
連れて行って下さるというビジョンを見ました

イエスさまは 私を神様の所に連れて来ると
私を置いて 見える距離の少し離れたところに行き
私と神様との関係の間に入ることはしないから
神様と直接愛の関係を育むようにと仰いました

別のビジョンで イエスさまはお母さんでした
神様はお父さんで 神様はいつも
笑いながら(ご自身は全く動くことなく)
世界を創造されていました

神様が笑うと 物凄いスピードで
どんどん新しいものが出来上がっていきました

たまに 私を抱いてその様子を見せるために
家の高い木の上に登って下さいました

すると たくさんの御使いたちが
イエスさまと共に働いていました

イエスさまは 家の中でも働いておられたので
私は何かしら手伝おうとします

しかし 私が手伝おうとすると
神様が私がやることを見ながら
私と同じことをなさいます

世界を創るときは手を動かされない神様が
私がやることを見ながら何かを創られるのです

すると いつも奇跡的なことが起きました
それは いつもいつも愛の奇跡でした

私はイエスさまを手伝うつもりが
私がやることをご覧になる神様が
私がやることを 私のための奇跡に
してくださいました

それは 働いた報酬 という風にも感じましたが
あれおかしいな イエスさまを手伝ってるつもりが
私のためになっちゃってる と悩みました

何より

神様は私の横で 私のやることを見ながら
何かをして下さっているので
「神様と一緒にやっている」感はあるのですが
イエスさまの手伝いをしているはずなのに
イエスさまを手伝っている感じが全然しないのです

神様と一緒にやってる感はするのだけど
イエスさまを感じないのです

しかし ある時りゅうくんがビジョンを見ました
私とイエスさまが一緒に働いているのです
一緒に というのは共同作業ではなく
シンクロ 一体化だったそうです

私が仕事を終え お手洗いに行くねーと
席を立つと 私が居たところに
イエスさまがいたのだそうです

イエスさまの衣を着て働いている と
りゅうくんは言ってくれましたが
しかし私が全くその実感を持てないのです

イエスさまとはどういう風に関係を築けばいいのだろう?
どういう風にすればイエスさまと一緒の感じがわかるのだろう?

聖霊さまに用いられている感じはわかる
でもイエスさまのことだけがどうしても
近くに感じる事が出来なかったのです

しかし先日 りゅうくんがイエスさまの
思いを伝えてくれました

それは 身を引き裂かれてでも
取り返したいと思うほどに愛している

という言葉でした

十字架に架かられて死んだのは
あなたを取り戻すためだったんだよ

それは聖書の福音のメッセージそのものですから
確かにイエスさまの言葉だと思いました

ですが 私はずっとこのことに
納得出来ていなかったのです

特に 洗礼を受ける前までは 本当に
なんで人のために罪がない方が死を
味わわなければならなかったのかと思いました

そこまでしても神様に立ち返らない人が
神様のみこころに反して弱い人を
苦しめているという現実があるからです

しかしイエスさまは間違えなく
そういう人達のためにも死なれました

死なれたのに 命まで捧げたのに
立ち返ることをせず滅んでいく人がいる

そのことが本当に悲しくて
その心の痛み 棘が
どうしても私の心から抜けなかったのです

ずっと この心の棘を抜いて下さいと
祈り続けていたのです

ですが神様は そういう人も確かにいる
という現実を譲ることはされませんでした
私がそのことを納得して受け入れるしかないのです

当然と言えば当然なんですけど
そこにはずっと葛藤がありました

ですが今日 イエスさまは
このように語られました

あなたは 神様が神様の器として創った
私が命かけるほどの価値ある存在で
あなたに逢えるの楽しみにしてた
地球が出来るよりも前から

一緒に 神様の仕事するの楽しみにしてた
仕事だけじゃない 人生全て
あなたと時間を過ごすこと 遊ぶことも

ご飯を食べたり 神様を賛美したり
一緒に過ごすことを楽しみにしてた

救われたのだからイエスさまのように
生きなければいけないとか
そういうことでは全然ない

あなたは神様の器であり
神様のイメージで創られており

あなたのやるべき備えは全て
神様が用意されているのであって
あなたは他の人になる必要はない

自分の努力でそうなろうと思わなくても
似たものになるように創られているのだから
手伝おうとか思わなくていい

そんなことより一緒の時間を楽しんでおくれ
折角私が一緒に居るのだから
その時間を喜んで過ごして欲しい

その思いを受け取ったときに

イエスさまが 公生涯の中で
心を頑なにするものに苛立ったり
聞く耳を持つ人は聞きなさいと仰ったり

あなたたちの心の目が開かないのは
聖書に預言されている通りであり
先祖の犯した罪を今の世代が背負うと仰り
十字架の道が整えられていくこと

それでも尚 この人達を赦して下さいと
祈ったことなど

心が頑なな滅び行く人達に対して
イエスさまがどのように接しておられたのかが
思い起こされました

イエスさまは あらかじめ滅びる人には
滅びを預言されました

イエスさまは その人達のためにも
赦しを祈られましたが

ではその祈りは聞き届けられたのでしょうか

違います 神様が滅びを預言された人は
預言通りに滅んでしまいました

全員ではありません
中には悔い改めた人もいます

パウロもその中の一人です
しかし全員が悔い改めたわけではありません

先日 世界的な伝道師が来日しましたが
リバイバルのために出来ることは
泣き叫ぶような祈りであると仰られていました

この悲しみがわからなければ
泣き叫ぶようには祈れないのです

救って下さい 救って下さいと
叫ぶように祈るためには
この悲しみがわからなければ
祈ることは出来ないのです

だから神様は 私からこの心の棘を
抜くことはされませんでした

しかし 祈る気力もないほどの
絶望からは救われなければいけなかった

受け止める強さを頂くしかなく
イエスさまの愛を受け入れることでしか
その強さを得ることは出来ない

そういうものなのだと思いました

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