神様が造られた本質を大切にする

昨日 ふとしたことから りゅうくんと
子どもの頃のおもちゃの話をしました

今 パソコンなどが好きな理由の
一つとなっているのが 恐らく
子どもの頃のおもちゃに対する幻滅です

鉄腕アトムの人形を買ってもらったのですが
(ご存知の方もいると思いますが)アトムは
胸が 開くようになっており その中に
電子回路など大切なものが入っていました

幼い頃 人形を買ってもらいわくわくして
胸の扉を開くと その中には
電子回路の絵のシールが貼ってあり
こんなの偽物だっ と怒って
人形を投げ捨てました

その後 私が選ぶおもちゃは
ラジコンとか精巧に出来たミニカーとか
自分で組み立てるトランシーバーや無線機など
とにかく「本物感」のあるものばかりでした

おままごとなどを全くしなかったわけでもないのですが
どの植物を使ったらより本物らしい
食材を再現出来るかといって
野原の植物を探し回る時間の方が長く
「本物感」に対するこだわりは物凄く強かったです

大人になり 本物をいじるようになれば
当然ながら「本物感」を求める必要はなくなります

より深く性質を学ぼうとする姿勢というのは
なくもないですが しかし自分の中に
「あまりこだわり過ぎても」という思いもあります

そのブレーキは この世で受けた傷が原因であり
それがあるために伸び伸びとした自分を
出し切れないという感じがずっとしていました

しかしそれは 神様が私に与えられたもので
神様がそのように造られたのだと思います

神様は 私がこだわっていく方向へ行くことを
喜んでくださっているようなのです

冒頭の おもちゃの人形の話をした後
神様が ニコニコしながら
何して遊ぶ?とずっと
尋ねて来られている感じがしており

私が何か 効率であるとか
合理的にものを考えようとすると
そんなこと考えずに遊ぼう!と
強く神様に意識を引っ張られて
何を考えていたか忘れていっており

神様は 私が今までの経験の中で身につけた
何か余計なものを取り去ろうとされていることを
とても強く感じます

神様の 遊ぼう という呼びかけは
りゅうくんと出逢った頃から
ずっとずっと示されているのですが

世の中で余計な知識を身につけてしまった
今の私が抱いている「遊ぶ」イメージと
神様が私の中に造られた「遊び」のイメージは
違うような気がしてきています

私の主観で言うと 遊びというよりは
私が本当にやりたいことを
やらせていただけるような気がしており

それを 遊びと称される神様が
本当に大好きだなぁと思います

私の人生全体が 心から求める
喜びの方向へ行っていることに
とても感謝をしています

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