愛と義で敵に打ち勝つ

神様は人の自由意志を尊重してくださいます
ですが 人は神様に属する者であり
神様が人に属する方では決してありません

神様は私に報いて下さる
だって聖書的に間違えていないから

律法学者はそう思っていました
ですが実際は神様の愛の心を知って
神様に忠実であるものが救いに預かっています

祭壇に備えられたパンをダビデは配り自分も食べましたが
神様はダビデを義とされました

ヨセフは奴隷として売られ牢屋に入れられました
人の目にどう映ったかはともかく
神様はヨセフを義とされました

平安は人を強めます

平安が無ければダビデのような大胆さは得られません
平安が無ければヨセフのような人生を
自暴自棄にならずに生き抜く事は出来ません

平安とは
聖書の文字通りに生きたら得られるものでは無く
聖書に現れている神様の御心に
触れる時に感じるものなのです

神様は 私たちが神を知り 愛するよりも前に
愛を注いで下さり 今でも注いで下さっています

それに応答すれば神様との人生が始まりますが
応答しなくても神様の愛は注がれています

そして 応答しようとすれば
敵の攻撃は激しくなります

どうして神様に従っているのに
こんなに大変な事が起こるのかと
思った事がある人は多いと思いますが

それが起きるのは神様から引き離す力の仕業であり
神様がなさっていることではありませんし
土台に愛を置くなら敵は逃げていくことになります

神様を信じて待つ人は救いを見るのです

しかし 敵の誘惑に負けて
一人嵐の中に飛び出してしまえばどうでしょうか

ある人が 神様に示されたことを達成させるために
自分で計画を立てて動き始めましたが
一向に実を結ぶ気配が見えず神様に叫びました

すると 神様は仰った

「そんなことをやれなんて言っていない」

神様の声を聞かずに動く事は危険です

敵に自由を許さないために
私たちは聖書を学び
自分の中から不義を取り除くことに努めます

その報いは最終的に
神様から頂く事になりますが

しかし聖書に書いてある通り 信仰の武具は
霊的戦いの備えであって
人や自分を裁く道具ではありません

ですが敵は人を裁いたり惑わす道具として
聖書を用いてきますから
心の中心に神様の愛を置くことはとても大切なのです

敵の思惑は 人を救いの道から逸らす事であり
ありとあらゆる嘘偽りにより 人を
間違えた方向へと誘います

それに負けないために武具の備えが必要なのです

エペソ人への手紙6章14-18節
では、しっかりと立ちなさい。
腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。
それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、
神のことばを受け取りなさい。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、
忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

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