人への気遣いではなく神への忠義を選ぶ

先日 神様から示されたとても大きなことがありました
創世記 最後のお話であるヨセフについてです

ヨセフは12人兄弟の11番目でとても可愛がられ
異母兄弟である兄たちから妬まれていました

ある時ヨセフは 兄達が自分に頭を垂れる夢を見たと
話をしたために 兄たちはヨセフを殺そうとします

ですが兄の中に 殺してはいけないと言う人がおり
ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまいます

しかし最終的には 売られた先のエジプトで
ヨセフは王からエジプト全土を治める権威を受かり
兄たちは本当にヨセフに対して頭を垂れることになります

このシーンを指して
自分が妬みの対象になっているのだから
兄たちに気を使った発言をすればいいのに

といった声をたまに聞くことがあるのですが
私は神様から全く逆のことを示されています

たとえ人と衝突することになったとしても
神に忠実であるように ということです

預言者の中には 神に反発をするイスラエル人に対し
あなたたちがやっていることは罪であると
あなたは彼らにはっきり言わなければならない

もし言わなければあなたの責任になる
もし言っても相手が悔い改めないなら
相手の責任になる といった記述があります

またパウロも 福音を聞いても信じないユダヤ人に
イザヤ書に あなたたちは悟らないと書いてあるから
福音は異邦人に述べ伝えられると明言していますし

イエスさまも パリサイ人に対して
災いだとはっきり言っているシーンがあります

ヨセフは 自分を妬んでいる兄たちが
自分に頭を下げる日が来るという夢を見ました
しかしヨセフは別に高ぶる意味でも何でもなく
見たことをそのまま兄たちに伝えて反感を買います

反感を買うことにより歯車は周りはじめ
預言が成就されていくのですが

ヨセフはその間 兄たちに殺されそうになったことや
売られたというトラウマを 神様により全て
良いものへと変えて頂くという体験をして

あなたたちが私を売ったのではなく
神様が私をエジプトに送ってくださった
と言って 兄たちを赦すに至っているのです

「自分が妬みの対象になっているのだから
兄たちに気を使った発言をすればいいのに」

という発想は 人への気遣い 保身であり
茨の呪いであり 神の計画を避ける発想です

もしそのように言うのであれば
次のシーンではどうだったでしょうか

ヨセフは売られた先で 奴隷として使える家の婦人に
言い寄られますが 神に罪を犯せないと逃げ
結果的に婦人に嘘をつかれて牢屋に入れられてしまいます

兄たちに気を使えばいいのにと言う人は
このシーンにおいても「騒ぎの元にならないように
主人に助けを求めるか婦人の願いを聞けばいいのに」
と 言うのでしょうか?

牢屋に入れられなければ エジプトの王に
見いだされる機会は生まれなかったのです

これは神様のご計画であり
神様に対して忠実なものに課せられた試練でもあります

どんな状況に置かれても神に忠実であることを
神様は人に求めておられ その中で
神様と人との関係を深められるのです

これはヨブ記でも言えることです

どんなに苦しみに置かれても ヨブは
神に忠実であろうとしましたが

友人たちの間違えた神学により
ヨブは大変苦しめられます

どうして何の罪も犯していない私が
こんな目に遭うのか!と叫んだ時に

神様は ご自身の為される御業について
あなたは1つでもそれを知っていて
あなたにもそれができるのかと仰いました

神様の御心を知ったヨブはただただ
神様にひれ伏し 神への忠誠を改めて誓いました

そしてその後に 2倍の祝福がありました

ヨセフは苦しみを通りましたが
後に得たものの大きさは計り知れず
何より 常に神様はヨセフと共にいてくださったのです

全てを失い 命すら落とすかのように見える危険な道でも
神様の手の中にいるなら絶対に安全なのです

とは言え

神様と無関係な普通の生活を送りたいのか
神様と一緒に大いなる人生を送るのか

この件について 選択の権利は人に与えられています

ひとつは「この地の基が作られるより前に」
神様が定められたことなのかもしれませんが

しかし最終的には人の選択に委ねられますし
神様を求める人を神様は探しておられます

神様が預言を下さったとしても
掴まない自由は人にありますし

人に与えられた預言を自分も掴みます!と
掴んでも神様は良しとしてくださるのです

以下は個人的な話ですが

今日 りゅうくんを通して神様が私に
こう 語ってくださいました

あなたがやることの報いは大きい
それは良いことも 悪いこともだ

これは良いことをやった時の報いも大きいし
悪いことをやった時の報いも大きいということです

良いことについては 本当に
小さいことをやっても大きく評価されるので
いつも恐縮してしまうぐらいですけど
それ故に 神様が為さったことだと言うことが出来ます

また 悪いことについても
他の人なら見逃されるようなちょっとした悪いことでも
自分であれば大事になって痛い目を見ることがわかっているので
絶対に悪いことには関わり合いにならないよう注意します

どんな些細な誘惑や悪に対しても敏感になり
良いことと悪いことに対する見分けの目が鍛えられます

良いことにしても悪いことにしても
まるで神様の大きな虫眼鏡がいつも
私と一緒にあるようであると感じます

しかしそれは 私自身が望んで求めたものでもあるのです
その思いは 神様から与えられたのかもしれません

一人で背負うには重すぎてとても担いきれませんが
神様と一緒であればとても幸せな召しであると感じます

神様から一時も離れずにいられるなら
本当に それに勝る幸せはないのです

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