神様のご計画が流れる川を作る

今日 神様が新しいビジョン というか
新しい事柄のビジョンを見せてくださいました

今まで荒地に水路を作る工事をしていたけど
今日からは水を流すよー

というものでした

そのビジョンを見せて貰った後に
神様は 私(たち)にとってとても
重要なことを教えてくださいました

普段 何気なく話をする人の霊的背景を
私たちは知りませんが 日本人の殆どの人は
自分ないし親や近しい人が
神様以外の何かに祈願をしています

祈願というのは 安全健康など
相手の幸せを祈る祈願です

そうやって 他の存在に祈ると
霊的影響を受けるようになります

その状態で 敵の嘘が入って来るのです

今日 私が示されたのは
ある霊的な影響を強く持った医者が
私の体調に対して こういう体質の子は
こういう体調不良を持つものだよ

ということを言った その時に
「そういうものなのかぁ」と
同意をしてしまったことが
神様の介入の妨げになっていることを
示してくださいました

敵と契約を結んでしまっているところは
本人の意思でそれを破棄して
神様に全てを委ねないと
神様に介入して頂くことが出来ないのです

真の神以外に祈願をすると
知らずのうちに大切な人を
敵に渡してしまうことになる

だからと言って その人に悪気があるわけではない
知識がないだけではあります

ここがとっても微妙なところですが
問題は背後の霊であって 祈る人ではないのです
騙されている人を責めても仕方がないですし
そうやって人を裁くことは御心ではありません

むしろ そのような裁きにより
クリスチャンが人と離れることが
敵の思惑なのですから
その罠にはまってはいけないのです

パリサイ人が糾弾されたのは
彼らが律法と聖書を持っていたからなのです

偶像崇拝が悪いことだと知らずに
信仰している人に対して
責め立てるようなシーンは
聖書に一つも出てきません

旧約聖書に神様の裁きはありましたが
糾弾は いつもイスラエル人に対してだけです

それは 神様とイスラエル人の間に
契約があったからなのです

契約がない異邦人に対して
裁くようなことは言われていないのです

サマリヤに行ったイエスさまも
彼らの信仰に対して糾弾することはなく
正しいことを伝えただけでしたし

使徒の働き以降も ただ教えているだけなのです
誰も偶像崇拝する人を責めたり非難したりはしていません

勿論 教えなければ 知らなければ
破壊をもたらすことを続けてしまうので
学ぶ必要はあるかもしれません

ですが学ぶかどうかもひっくるめて
選択は人の自由であり その自由意志を
阻害することは誰にも出来ない

これは 神様が人に対して定められたルールなのです

それで 昨日の記事(嘘に対してノーと言う)の話になるわけです

幸せを祈る人自身を裁く必要はありません
また 相手が何を信仰するかはその人の自由です

ですが 他人が自分に対して知らずに結んだ契約については
自分の意志で悪霊に対してノーを言うことは出来るのです

例えば偶像崇拝をしている親が
何度も何度も偶像に対して自分の幸せを祈ってしまうとしても
何度も何度もその契約を破棄し 出て行けと言うことは可能であり

更に その親のために 悪霊を叱りつけて
この地から出ていけ 二度と戻ってきてはならない
母と悪霊との縁を断ち切ると命令することは出来る

主権を自分自身がしっかりと掴まなければなりません

人の幸せを祈ることは悪いことではないのです
ですが 何に対して拝んでいるかを知る必要はあります
知らずに騙されているのは自由ではありません
知った上で選択をするのが自由であり
神様は全ての人にその選択権を与えられています

福音にある宣教命令とは 述べ伝えと
回心をした人に対する弟子訓練であり
全ての人をクリスチャンにすることではないのです

私たちは伝えるだけで良いのです
ですが 神様のみ心を思うのなら
その人が救われるよう祈りますし
それが大切な人ならなおさらです

しかし人の悟りに頼るのではなく
神様により霊の目が開かれることを祈りましょう

神の子羊は 神の声を聴き分けます
人を創り変えることが出来るのは神様だけですから
神様に期待をしましょう

尊敬の文化というのは 人にとって無理でも
神様によって良く変わることは可能だと
信じることです

自分の思う「良さ」に変わるのではありません
神様が作られた通りのイメージになっていくのです

そしてその姿は 本人が思い描くものすらも
遥かに高いものであったりするのです

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