神様が下さる平安を流す

今日の示しは 神様が危険だと示されたとしても
神様がそこへ入ることを許されるのなら
神様の手の中で安全でいられる というものでした

入ってはいけません と示されたら
勿論入ってはいけません ですが

危険があるよ と示されるだけで
入って行かざるを得ない状況が置かれるなら
「備えなさい 覚悟をしなさい」という意味で
全ては神様の手に委ねることが出来るのです

最近感じるのですが

以前の自分には 多くの人がそうであるように
あてにもならないような経験則や人の考える法則に
頼り物事を見極めようとするところがありました

思考のパターンとも言えるかもしれません

ですが そのような思考は自分自身を縛るだけで
何の益にもならないことはわかっていました

予測がつくことで安心をしたいだけであり
自分という限界を設けていただけであり
キャパを超えたことが起きた時に
無力であることに頭を抱えるだけなのです

そして 自分の手の内で物事をおさめたがるのは
恐れが根拠であることに気付いてはいたのです

神様を知る前は 気付いてはいたとしても
自分を守るものが必要でした

しかし恐れは神様から出たものではなく
愛と恐れは共存し得ないとするなら
自分の手中に収めようとすることは
悪魔的であると言って良いかもしれません

愛がない言動でコントロールしようとすれば
人間関係をはじめとした何かが破壊されるでしょう

創造性のない存在は 誰かから奪うしかありません

クリエイティブなご性質 物事を生み出す力は
神様だけがお持ちのご性質であり
神様のご性質は愛なのです

ですが 神様により頼む生き方というのは
物事をとてもフラットに見ることが出来ます

出来事に対してジャッジをしなくなります
それは 裁かないということでもありますし
的外れな期待をしないということでもあります

そこに 愛という要素が加わるとどうなるでしょうか

神様の目線で物を見るというのは
そういうことなんだなぁと思います

もし 外が嵐であったとしても
神様と共にいる自分自身はとても平安です

そういう中で 平安じゃない人が
周囲にいたらどうするでしょうか

平安を失っている人の心に一粒の種を蒔き
根を腐らせないように しかし
乾かしてもしないように水を撒き

丁寧に丁寧に 芽が出ることを待つような
そんな感覚であるように思います

自分自身が 嵐の中の陽だまりのようであるなら
その平安は 周囲に広がっていくでしょう

コントロールをする必要はありません
支配は必要ないのです

ただ 神様が働かれる場を作って
神様の邪魔をしないだけだと思います

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