神様は裁かれない

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今日は いくつかの文章を読む機会があったのですが
命に溢れている文章を読むと元気がもらえます

その中で 聖化と律法主義は違うというお話がありました

聖書でダメだと言われているからダメ というのは律法主義で
裁きの思いや人の努力がその中心にあり
神様から出たものではなく互いに傷つけあいます

対して聖化というのは 神様の召しに
もっと深く関わりたいと祈っている中で
必要があって神様から離れるよう示され
自然に悪いものから離れることを言います

神様は 本人の自由意志を尊重されるので
悪いものから離れたくないという人に対し
無理に離れなさいとは言わないのです

但し 悪いものから離れないことにより
何か不都合が生じたとしても
それを選んだ本人の責任となります

それは 自然の摂理であり
神様が罰を与えているのではありません
神様は 悪いものから離れて滅びるなと
仰る神様ですが しかし自由意志を尊重されます

人が自分から これがやりたいです
こうなりたいですと神様に向かう祈りをする時

このことから離れなさい と示されたら
その責任は 神様が全て取ってくださるので
努力せずとも難なく離れることが出来るのです

すごく変な話なのですが

以前 お腹の調子がものすごく悪く
おかゆのような流動食以外を食べると
お腹が痛くなってしまう時期がありました

その時に 神様 納豆食べたいですーと祈ったのですが
よく噛んで食べなさい という声が聞こえたので
よく噛んで食べたらお腹が痛くならずに済んだ上に
その時をきっかけにお腹の調子が良くなった
ということがありました

また りゅうくんと結婚をしてすぐの頃
家の中の聖さが足りない気がしたので
神様の御心ではないものをどうか示してください
聖めてくださいと祈ったところ

りゅうくんが好きだったゲームの背景に
どんな偶像の力が働いているのかを示してくださったり
悪い影響があるものが壊れたりしました

私は 修理をするべきかどうか悩みましたが
りゅうくんは これが御心ならもういらないと
簡単に手放すことが出来ました

神様は 壊す神でしょうか 違います
ですが私たちが自然と無理なく離れられるように
仕向けてくださる神様ではあるのです

最近気づいたのですが
背後の敵に打ち勝つで少し書きましたが)

裁きの心というのは心の目や耳に覆いをかけてしまうようで
(自分を含め)人を裁いている時 神様が何を語っているか
聞こえなくなってしまいます

何か悪いことが起きた時に
もしかしてこれが悪いんじゃないか
これが原因じゃないかと自分や周囲を裁き始めると
神様からの解決に耳を塞ぐことになりかねません

怖いことがあったり 嫌なことがあったりしたら
(たとえ明確に原因になりそうな出来事があったとしても)
自分の思いであれが悪かった これが悪かったと裁くことはせずに
単純に 解決方法や 起きた理由が何かを神様に求めてください

何故なら 場合によってはその原因を知る必要がなかったり
「誰かが何かをした」といった単純な理由ではない
もっと深い理由が隠されていたりするからです

目先の出来事に翻弄されたり
裁きにより出来事に覆いを掛けてしまうと
折角の根本解決の機会を逃してしまうのです

神様 この原因を取り除いてください
もし原因を知る必要があるなら示してください
自分の中に悔い改めるべきことがあるなら
それを示し 悔い改めさせてください

自分の憶測や 裁きはする必要ありません
そんなことをすれば敵の足場になってしまうからです

これは聖書箇所で言うとこの聖句が該当すると思います

マタイの福音書7章3-5節
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』
などとどうして言うのですか。
見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
ちりを取り除くことができます。

はっきり見える人になれば
神様の御声を聴いて伝え 解決をもたらす器として
用いられ 人を救うことが出来るようになるのです

まずは 自分自身の覆いを取ることが最初なのです

また 人の覆いを取ろうとする動機は
裁きの心ではなく愛であるべきであり
人の自由意思を尊重するべきであり

それこそが 神様のご性質なのです

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