伝わるもの 伝わらないもの

仕事に限らないのですが

りゅうくんに何かのやり方を教えている時
どうしてこんなに簡単なことが出来ないのか?と
首をかしげるようなことが多々ありました

それは出来る者の視点というようなことではなく
どちらかというと 難しく考え過ぎるのを止めて
簡単にする ということが出来ないのです

丁寧過ぎて時間がかかってしまう ということは
私も若い頃よくあったので分かりますが
作業というのは ポイントを押さえて
工程を減らした方がミスも減るため時短が出来ます

なので私は若い頃 いかにして質を落とさず
作業効率を上げるかということにこだわりました

しかしりゅうくんの場合 時短をしなさいと言うと
作業途中で放り出してしまうのです

何度考え方や やり方を教えても駄目で
本人はふてくされて 自分は頭が悪いんだとか
言い出す始末です

どうしたものか と思っていたのですが

ある時 気がつきました

これは 正にイヤイヤ期のようなもので
自分のやり方でやらせてもらえないと
泣いて怒る子どものような態度でいる

もしかしたら 教わるのではなく
教えてもらうのではなく
自分で出来るようになりたいのかもしれません

が 裏にある思いがどうであるかは
ここでは大した問題ではなく

「この人は出来ないのではなく
意図的にやらないことを選んでいる」
ということに気付いたのです

やる気がないのにやります やれます と
自分のことも人のことも
欺いていることが問題なのです

あなたは自分の頭を悪いと言うが
そうじゃない 心が悪い

ということをはっきりと指摘しました

神さまに対する抵抗も一緒で
神さまが良くしてくださろうとするのに
あなたは攻撃をしている

そのことを指摘しました

昨日書いた通りです
救われたくない人を救おうとすると
その本人から攻撃が来るのです

神さまの愛による解決を拒んで
自分の思い通りにしたいのであれば
それは 心が悪いとしか表現のしようがありません

抵抗は いつものことですし
本人もどうやったら変われるのか
本気で悩んでいることなのですけど

しかし 先日の聖会のメッセージでわかりました

人は 自由に育てられると傷付くのです

正しい教えを持たず 自由に育てられ
傷付いた自分を取り戻すための方法が
りゅうくんの場合は 誰かに叱って欲しい
誰かに止めて欲しい だったのです

そういえば 私も若い頃は誰かが
私を矯正してくれないかなぁと思ったなぁ
と なんとなく思い返したりしました

私達は自由です
クリスチャンは自由にして頂いているのです

悪魔に荷担をすることはあっても
悪魔に支配されることはありません

ですから 縛られたものの振りを
する必要はもうありません

縛ろうとする力に同調して
荷担する者になる必要はないのです

が 本人が敵に荷担したいと思っているなら
本人の心が悪いとしか言いようが無いのです

心が悪い というのは結構衝撃的な表現で
こう言っては何ですが あまり人に対して
使う表現ではないと思います

しかし それが的を得ていたのか

出来て当たり前のことが出来るようになりました
自分の仕事の質を客観的に見て判断し
どうやったら良くなるだろうと考え始めました

心の状態が変わった時
伝わらなかったものが伝わるようになりました

頭の善し悪しじゃないよな と本当に思います

世の中には 型にはまりたくない人も居ます
好き勝手に出来る方が幸せだと思う人も居ます

しかし賢い人は それが自分を
傷つけるものだと良く分かっています

そして 自由であることが辛いと思う人も居ます
良いことを選びたいと思う人も居て
良いことを選ぶ自由を勝ち取りたい人も居ます

りゅうくんはそういう人であると思います

どうしてそれが出来ないのかと
イラつく気持ちも 本当によく分かりますし
世の人は 私達の思いを逆行させようとします

しかし今 それがより分けられていると感じるのです

本人の意志がどうであれ 思いがどうであれ
本来居るべき場所へと配置されていっている
そのように感じます

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