神様のイメージ通りに生きる

今日の神様からの示しは
神様から目を背けようとするものに
目を向けないように という促しでした

例えば 人目を気にすることというのは
人目を「恐れている」という状態であり

人目を気にしてあれこれ思い悩むなら
神様から目を背けている状態と言えます

人目が気になる時 恐れを感じる時に
それでも神様の方を見ることは出来ます

方法は色々とあります

例えば 単純に神様!!!と叫び
賛美をする みことばを宣言するなどすることで
意識を神様に向けることが出来ます

また 恐れの霊に黙れ!静まれ!と
叱りつけることが必要なこともありますし

神様の平安に留まることを宣言して
平安や喜びによって恐れを締め出すことも出来ます

人によって 成長の段階によって
何を求められるのかは違いがありますが
とにかく 神様は私たちに神様に頼り
御国の王子 王女としての立ち振る舞いが
出来るようになって欲しいと願っていらっしゃいます

人にはそれぞれ弱さがありますが
神様は訓練のために その弱い場所への
攻撃を許される時があります

特に神様以外に依存をしている場合は
徹底的にそれを砕かれます

人への依存 お金への依存
(占い染みた)未来の約束への依存
賞賛を受けること お酒やタバコ
依存する対象はたくさんありますが

そういったものに頼っているうちは
幾度となく挑戦がやって来ます

努力をすることへの依存がある人は
ただ喜んで待つことを求められることもあります

実際 神様だけに依存出来る状態にならないと
任せられない領域というのがあるわけです

不安が入ることで 完成するべきことが
完成しなくなってしまうことがあるのです

神様は聖書の中で 恐れるものやあざ笑うものを
より分けられるシーンが何度も出て来ます

ここ最近書いている「絶望的なまでに
自分の努力ではどうにもならないこと」というのは
この「恐れからの脱出」のことが大部分です

自分の経験からも 人を見ていても感じるのが
依存から脱出しているように見える人というのは
依存対象を別のものに変えているだけなのです

考え方や対象を変えているだけで
本当に自由である人はほとんどおらず
何かに縛られているのです

例えば お酒に依存していた人が
ジムに通うことにハマったとします

それは一見良いことのように見えますが
しかし 例えばケガをするなどして
依存対象であるジム通いが出来なくなった時
またお酒依存に戻ってしまったりする

本当に 何にも依存しなくて良くなることは
多分 ないのだと思います

何故なら 神様は人を
「神様に依存しないと生きられない」ように
創られているからです

神様に依存をしなかったら
他の何かに依存しなければ人は生きられず
神様に依存をする時だけ
神様のそのご性質の故に
私たちは自由でいられるのではないかと思います

神様ご自身が 私たちに自由意志を与えられました
自由でいて欲しいというのは神様ご自身の願いであり
私たちが弱さの故に不自由であることは
神様のイメージする人の姿ではないのだと思います

神様は それぞれに賜物を与えられ
その賜物を活かして喜んで
互いに与え合うものにすることで
地に繁栄をもたらそうとご計画された

そうであると私は信じていますが

神様以外のものに依存をしている者がいるところでは
神様が人に準備した価値が踏みにじられてしまいます

愛よりも 神様との親しい交わりよりも
お金や人への気遣いが大切なところでは
人の尊厳は踏みにじられるのです

お金を追い求める者は 繁栄が得られることを夢見ていますが
実際は 繁栄の基を踏みにじっているわけです

神様のみ恵みに目が開かれ
全ての人が受けるべきを受けて
与える者となる日が来たら
どんなにか素晴らしいでしょう

人の目には不可能でも
神様の目に可能であるなら
必ずそのようになる

それが 私たちが取るべき立ち位置で
神の御恵み 神様の憐れみを一番に求めることを
神様は義として下さる神様なのです

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