みこころを祈る

今日の神様からの示しは
この地に根差すこと この地を愛すること

神様が愛するように 人々を見て
神様が愛するように 人々を愛すること

でした

クリスチャンは 何が義で何が罪なのかを
知る知恵知識を与えられる特権があります

聖霊さまを頂くということは
そういうことです

それは この世においての
義や罪とは違います

この地を 宇宙を 私たちを含めた
あらゆる目に見えるもの 見えないもの
私たちを取り巻く全てを創られた方が
定められた義と罪であり

その根底に流れるものは愛です

この地で言われている義と罪は
人が考えて作ったものであって
地域差があり 根底にある暗黙のものも
土地土地により存在します

また 育った家や接した人によっても
変わってきて それは人に必ずしも
自由を与えるものではありません

愛が基準となるものもあれば
呪いが基準となるものもありますし
不義が基準となるものもあります

正しいと思って守っていることで
返って苦しめられることも
多く含まれているのです

ですが 神様の義は違います
人々を罪の呪いから解放し
心からの平安と 霊や魂に至り
世代を越えていくような
健康と繁栄をもたらしてくださいます

神様は 人の罪を全て忘れてくださいました
ですがそれは イエスさまが
全ての罪を背負ってくれたと
信じることが条件になっています

罪が 無条件に消えるわけではないからです
イエスさまが背負われた故に
罪を犯さなかったことにして
聖霊さまを与えることにより
本当の義に歩めるようにすると
神様が決めてくださった

だから 罪が赦されるのです

ただ 神様は時間に縛られない方ですから
今はイエスさまを受け入れていなくても
将来 受け入れる人に対しては
既に受け入れた人と同じように
ご覧になっておられます

また 受け入れない人について
神様は 時がくるまでは裁かないことを
決められました

ここに躓く人が多いのですが
しかし神様はそう決められたのです

ですから その時が来るまでは
神様は裁くことはせずに
ただ イエスさまを通して
教えることだけをされました

知らなければ罪にならないのです
神様の基準を知ってなお
人の不義を義だと主張するものが
罪に定められるのです

神様は 全ての人に生きて欲しいので
その不義を取り除いてくださろうと
たくさんのお膳立てと 愛とみ恵みとを
注いでくださいます 教えもします

罰で こらしめることで
改心をさせる方ではなく
罪の故に苦しむ人を 泥沼から
救い上げて そのみこころを
現してくださる神様なのです

根底に流れるものは愛です

人が苦しむのは 自分の罪の故ですが
その苦しみから救ってくださいと求めれば
神様は救ってくださるのです

決して 罪人を裁かれません
私たちが罪を犯しても神に裁かれないのは
その約束がある故であって
それは終わりの時まで行われないのです

あなたに対して悪いことをする人がいて
あなたが苦しんでいたとしても
あいつを裁いてください という祈りは
決して叶うことはありません

神様はそんなことをされる神ではないからです

それは祈りではなく呪いであり
もしそれが叶うのなら 為されたのは
神様ではない存在によります

ですから 罪人が罪に定められるように
祈ることは 偶像崇拝になってしまい

神に赦されたという特権を
自ら手放す祈りなのです

人の罪を見て裁くなら
あなたの罪も裁かれると
聖書には書いてあるからです

人の罪に苦しめられた時
神様が喜ぶ祈りとはこれです

その人の目が開かれて
神様の愛を知ることが出来ますように
神様に満たされて 何が義で何が罪か
知る知恵知識を与えられて
悔い改める機会が与えられますように
あなたの愛とみ恵みとで
その人が罪を犯さなくなりますように

神様 私はこの人の罪を赦すので
どうか私をこの苦しみから救ってください

相手が イエスさまにより
義に立ち返ると信じることが
御国の尊敬の文化です

神様は 全ての人が神様に立ち返り
命を受けることを望まれていますから
そのみこころを祈ることが
神様に喜ばれる祈りです

私たちが御国の文化に生き
そして神様の栄光が私たちの周りに
流れ出ていけば 人々は
神様の素晴らしさに気付きます

私たちが呪いを打ち砕く宣言をする時
御国が地を勝ち取るのです

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