する側もされる側も励まされる預言

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今日は預言セミナー2日目でしたが
コミュニケーションのことを主に学びましたが
その中で 預言をする側もされる側も
両方が励ましを受ける預言というものを体験しました

ちなみに預言について聖書では
このように書かれています

第一コリント人への手紙 14:3
ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、
慰めを与えるために、人に向かって話します。

ここにある徳を高めるとは 原語によると
建て上げるというニュアンスのことで
勧めとは励ましのことだそうですので

預言をする本来の目的が
人を建て上げ 励まし 慰めを与えるため

ということになります

ところが 世の中にはこの原則を守らずに
自分の思いを押し付けるために
(人をコントロールする目的で)
預言っぽく言う人がいるのだそうです

神様のご性質を知っていたら
「そんなことを神様が言うわけないでしょ」と
呆れるような内容である場合もありますし
聖書に書いてあることを真似る場合もあります

悪魔がイエスさまを試した時
「聖書にはこう書いてある」という表現で
イエスさまを誘惑しようとしていることからも
聖書の言葉というのは正しくない目的で
使われることがあることがわかります

クリスチャンにとって 神様との交流は
誰にでも出来ることです

イエスさまは ご自身が地からいなくなることは
人々にとっては良いことである 何故なら
そのことにより聖霊が地に送られるから

と 仰られましたが 聖霊というのは
私たちの中に住んで 神様やイエスさまの
声を直接伝えてくださる方であり

洗礼を受けて聖霊を受け取れば 誰でも
神様の声を聴くことが出来るようになります

クリスチャンであれば その預言が
神様からのものかそうでないかを
吟味することは可能であり

実際 難しい預言を受け取った時は必ず
何人かによって確認するようにと教えられます

では クリスチャンではない人にとって
預言とはどういうものになるのでしょうか

本物の預言であれば
神様に出逢う時となるはずです

預言とは 神様が全てをご存知であることを知る
ほんの片鱗を頂く作業です

預言をするものは ただの配達人です

配達人は 中身を知りませんが
受取人は 中身を見ます

そして そこには配達人が知るはずがない
神様の存在を感じるような
建て上げ 励まし 慰めが書かれているはずです

この「書かれているはず」というのが
預言する側にとってはプレッシャーですが
しかし もし正しい配達人であるなら
神様から受け取ったものに自分の思いを
ひとつも加えてはいけません

そんなことをしたら それはもう
神様からのものではなくなるからです

そのようなことを防ぐために
複数の人で預言をすることは
とても良い助けであることを学びました

もし 複数の人がいれば その預言が
神様のものかどうかの吟味がその場で出来ますし

神様は 複数の人に全く理解不能な言葉を
パズルのように渡してくださることがあり
配達人から出たものではないということを
明確に示してくださることがあるのです

昨日も預言の練習の時に 受け取った人が
ひとつひとつはバラバラだけど
全て繋げると神様からのメッセージになる
と言ってくれて 預言した側も励まされました

昨日は 私自身今までになかった程に
あまりにも断片的なものを見ることが多く
伝えるのに???となることばかりでしたが

それ故に 自分が責任を負うことがなく
ある意味 とても楽に預言することが出来ました

チームで預言をすることは
預言する側もされる側も守られる
とても良い方法だなと思いました

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