恐れている人に束縛されないために

イエスさまは自由でありながらも
罪を犯したことがない方です

しかし イエスさまが捕まり
祭司長がイエスさまに対して
外でどんなことを話していたかと尋問します

イエスさまが 聞いていた人に尋ねるようにと言われると
祭司長に対して態度が悪いと殴られます

人々は 人が決めたルールにより縛りあっています
それは 聖書では「いばら」と表現されています

そして いばらが生い茂る環境において
人はどうなるか このように記されています

ルカの福音書8章14節
いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。
みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、
この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、
実が熟するまでにならないのです。

弟子たちは イエスさまに近づこうとする子どもたちや
助けを求めて叫ぶ盲人を黙らせようとしました

ですが 神様の方を見れば
そっちを見なくていいからこちらへおいでと
いつでも手を広げてくださっています

人への気遣いや恐れは 神様との関係を引き裂きます

ですが 面白いもので

恐れていながらも たまに勇気をふり絞ってみると
他人に邪魔をされて結局乗り越えられない
ということが起きがちなのです

自分の恐れが無意識に 他人に影響を与えるからです

弟子たちは イエスさまの奇跡を見ても
色々なことを恐れていました

パンを忘れたことを恐れたり
イエスさまが生き返ったと信じることを恐れたり

とにかく たくさんのことを恐れていたので
神様を求める人の邪魔をたくさんしてしまいました

勿論 そのこと自体は責めるべきものではありませんし
力を受けた時に彼らは生まれ変わります

で あるとしたら

もし あなたが誰かに邪魔をされたと感じるなら
その人が 力を受けて 恐れを手放すことが
出来るように祈ればいいのではないかと思うのです

誰も傷付くことなく 損もしません
もし 相手がそれに相応しくなければ
自分のところに戻ってきます

逃げたい人は乗り越えさせてくださいとは
祈りませんし祈れません その上
神様を求めている人の邪魔をします

神様を求める人を認めてしまったら
自分も求めることに同意をすることになるので

恐れている人は
そんなことに同意することは出来ないので
必死になって邪魔をするのです

相手への気遣いはいばらです

もし 相手に同意をするなら
あなたも逃げる人と同列になってしまいます

気遣いをする人に同意をする必要はありません
神様の目を通して愛を持って接するだけでいいのです

神の国の住人は 影響を与える者でなければいけません
影響されてこの世のものになる必要はないのです

自分を縛ろうとする事柄を赦して手放す祈りをする時
あらゆる束縛から自由になることが出来ます

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