正論はイエスさまを傷付ける

今日の示しは 私たちの思いと
神様が与えられる召しというのは
必ずしも同じではない

むしろ 苦手と思うようなところにこそ
愛の訓練があります

先週 私は恐らく一生関わることが
ないであろうと思うような人々と
接する機会がありました

尚且つ こちらに有り得ないような
悪意を向けて来られた

周りの人が彼等の態度に憤慨してしまい
その破れ口に立ち続ける必要がありました

相手を赦す必要がありました

本当は自分が悪いのに
相手に全ての責任を背負わせて
あわよくば 自分の過ちの代償を
他人に支払わせようとする人たちでした

近くにいれば こちらは全く悪くないのに
全てを背負わせられるわけですから
そういう人を「愛して赦す」ことは本当に難しい

なのに 何故関係が出来てしまうのか

その答えを知る機会が訪れた時だったのです

結論から言うと 憐れみが原因でした

相手を可哀想だと思うから
あなたは痛みを負っているので
相手のために祈ってあげれば
その痛みは消えるよ

と 教えて貰いました

その時は色々あり 神様のみこころ通り
祈らせてもらうことが出来ましたが

しかし こちらに悪意を向けている人に
祈らせてくださいと言うことは
物凄いチャレンジでした

相手はこちらに対して一切の
(最低限 礼節として人に対して持つべき)
尊敬がない人です

あなたのような人が私に祈るってどういうこと?
そんな必要があるわけないでしょう

そういう態度であるわけです

ですが 私は示されたので祈らせて欲しいと言い
祈り終わってから 祈らせてくれてありがとうと言い

そして 速攻でその場を離れ
神様に感謝を捧げました

とにかく 見る方は神様だけです
神様に感謝をする

だけど この「憐れみ」というのは
持っていて良いものなのかどうか

愛することが難しい相手に
憐れみを持つというのは
偽善的であると感じました

憐れみというのは
私の愛の形です

それは神様が私に与えた賜物です

ですが 自分を憐れむ人に対して
プライドをぶつけてくる人は確かにいます

プライドが災いして死の淵に立つ人に
プライドとゴミを投げつけられ
酷く傷付けられた経験は
クリスチャンになるまでにも
幾度となくあります

そういう人に愛を向けることは
とてもリスキーです
だって 攻撃をしてくるのですから

それまでも赦して愛する選択をしてきましたが

ですが思うのです

憐れむと攻撃をしてくるような人に
イエスさまならどのように愛を注ぐのか

イエスさまならどのようにするのか
私は彼等にどのように向き合っていくべきなのか

欲を言うなら

どうしたら互いに愛し合える関係になれるのか

私は仲良くしたいだけなのに
どうして人をゴミ捨て場か何かのようにしか
見ることが出来ないのか

どうして尊厳を互いに尊重しあえないのか

今のところ この件について話をして
明確な解決を持つ人を見たことがない

ただ 赦しを宣言すれば
その赦すという言葉が十字架の前に
積まれていくから赦すと言い続けるといいよ

と 教えてもらえただけでした

赦し続けていたら
いつか世界が変わる

そう信じて赦し続けるしかないのだと思います

もしかしたら それが成就するのは
パリサイ人が悔い改めるような
ものなのかもしれません

ですが だとしたら必ず
ブレイクスルーはあるわけですから

赦し続けることを選択して
十字架の前に充分なとりなしの祈りが
積み上がることを心から祈ります

誰かが彼等に対して「正論」で切りつければ
傷付けられるのはイエスさまなのです

何故なら イエスさまはその人のためにも
罪の代償を全て背負ってくださったからです

赦し続けます

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