自由に伴う責任

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今日のQT箇所は イエスさまが十字架にかかる
数日前に起きた出来事でした

マリアが300デナリ(当時のローマ兵の年俸が300デナリ)もの
価値がある高価な香油を イエスさまの足に塗ると

財布の管理をしており お金をくすねていた
イスカリオテのユダが どうしてその香油を売って
貧しい人に施さなかったのかと言うのですが

イエスさまは

マリアは私のためにしたのだから
そのままにしておきなさい と仰います

他の福音書では このことは後にまで語り継がれ
彼女の記念となるという表現もされている有名な箇所です

ここには 人の都合(偽善)と神への愛という
明暗がはっきりと書き出されています

間違えた選択をしている人が
正しい選択をしている人の足を引っ張る時
大抵は 尤もらしいことを言うのです

イエスさまを殺そうとしていたパリサイ人たちもそうでした

当時の大祭司カヤパは 最高権威を持っていた故に
神様のご計画を預言的に口にします

ひとりの人が民の代わりに死んで
国民全体が滅びないほうが
あなたがたにとって得策だ

実際には人の思惑とは全く違う次元で
そのことは成就することになりましたが

彼らがイエスさまを殺したのは決して
民を思ってのことではありません

ただ神を愛していない故に
イエスさまを殺しただけです

足に香油を塗ったマリヤはこれより前に
姉マルタの手伝いをせずにイエスさまの足元で
お話を聞き入っていたことがあります

その時 姉マルタはイエスさまに
このようなことを言っています

主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、
何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。

これに対してイエスさまは
このように答えられます

マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを
心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません。

マルタにとっては イエスさまの話(神様のみことば)よりも
おもてなしをすることの方が大事でした

自分がそうであるばかりに留まらず
神様のみ言葉を第一にしているマリヤに対してまで
自分の心配や気遣いを助けるようにと
神様ご自身に対して主張しているのです

結構な大胆さですが それだけイエスさまに
心を赦しているとも言えます

それに対してイエスさまは

マリヤは本当に必要な
ただ一つの良いものを選んだのだから
それを取り上げてはいけません とだけ仰いました

あなたも手を休めて話を聞きなさい
あなたも一番良いものを選ぶべきだ とは
言われていないのです

この事はとても重要なことであるように思います

人から良いものを取り上げるのはダメなことだけど
神様を第一にしないとダメだとは仰っていないのです

これはあくまでも選択の自由は人にある ということであり

人が間違えた選択をしていても
神様は「良いものを選びなさい」とは
決して言ってくださらないのです

間違えた人が 良いものを選ぶ人から
良いものを取り上げるという暴挙に出た時に
「取り上げてはならない」と
窘めてくださるだけなのです

自由には 責任がある

そういうことであると感じます

イエスさまは 何が良いことで 何が悪いことであるかを
例え話で示し 聞く耳を持ちなさい とは仰いました

また

良いものを選んだ人を幸いだと仰いましたし
悪いものを選んだ人を不幸だとも仰いました

パリサイ人に至っては 良いものを選ぼうとする人を
阻害するので災いだ とまで仰いました

このことは パリサイ人に限らず
躓きを与えるものは災いだという
表現でも書かれています

パリサイ人に対して バプテスマのヨハネは
「悔い改めに相応しい良い実を結べ」と言っていますが

しかしイエスさまは そのような強い口調で
正しいことをするように促すことは仰っていないのです

唯一 金持ちの息子に対して

もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、
あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。(マタイ19:21)

と教えてはいるものの

質問に答えただけであって
命令も裁きもしていないことが読み取れます

イエスさまは 神を第一にしていない人に対して
「正しいものを選びなさい」といった厳しい口調で
教えるようなことはされていないのです

だからこそ パリサイ人たちはイエスさまに
はっきり言ってくれと詰め寄ったのでしょう

ですがイエスさまは 彼らが求めたような
「威厳ある神」らしく振舞うことはありませんでした

人が思うような威厳ある恐ろしい神様は
神様の真のお姿ではない 偶像なのです

ですが

ペテロに対して 涙で足を拭った女を引き合いにして
愛の深さが違うことを示されています

ルカの福音書7章44b-47節
この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、
あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、
涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、
わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、
この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。
というのは、彼女はよけい愛したからです。
しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』

これはどういうことでしょうか

思うに

ペテロはイエスさまを本当に愛していたので
イエスさまは 神様を愛するということが
どういうことであるかを教えられたのです

ペテロには 愛についてたくさんの示しをされています
もっと神を愛して欲しいと
要求していらっしゃるようにも読み取れます

それこそが 神様の御心であると思うのです

そして神様は 真にご自身を一番に愛する者には
神様の御心を示してくださるのだと思います

神様よりも大事なものがある人に対してまで
そのような主張をすることはされませんでした

ただやんわりと ご自身を一番に愛する人を
守ってくださいました

間違えたものを選ぶ人のこともイエスさまは
尊重はしてくださるのです

ですが 神のみことばと人の思い どちらが
大事であるかについては明確に教えられています

それは 正にこのことを現していると思います

マルコの福音書12章29-30節
一番たいせつなのはこれです。「イスラエルよ。聞け。
われらの神である主は、唯一の主である。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、
力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

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