聖霊の力に留まる

平安に留まることは
神様の声を聴くために
絶対必要な要素です

自分自身のことに関して言えば

何かをしなくては という
思いに追いたてられていると
折角 神様が解決策や癒しを
与えようとされていても
受け取り損ねてしまいます

そして 自分以外のことに関して言うと
心配をする ということで
同じように神様の介入を
邪魔してしまうことになるのです

神様の介入を邪魔する人がいると
神様の奇跡が起きないことは
聖書の中でも様々な表現で書かれています

例えば 死んだ娘を甦らせたとき
イエスさまはご自身が特別に選んだ弟子と
親以外は部屋から出してしまわれました

また 預言者は故郷では敬われないと言い
故郷の土地ではあまり奇跡を
起こされなかったことも有名です

自分で何かをしなくては と
気を張っている時
目線は問題ややるべきことに向かい
心は臨戦体制を取っていると思います

そんな時は 助けますよ と横から
声をかけられても
ちょっと今は黙ってて と
助け手を黙らせてしまいます

また 心配をするというのは
悪いことが起きるのではないかと
思い巡らすことを言います

良いことが起きようとしている時に
もしかしたら悪いことが
起きるかもしれないと思う人がいると

良いことを為さる方は まず
邪魔する者を外に出されるのです

神様に祈り向かう時と
黙想の時間だけ
神様に心を向けている人がいます

祈り終えたら 自分の力に頼る
そんな人がたくさんいます

ですが 違うのです

神様は 私たちがやるべき良いことすら
備えてくださっている神様なのです

何をやるにしても
どんな時 どんな状況にあったとしても
神様に頼りつつ全てのことをします

その感覚を掴むのには訓練が必要です

今まで身に付けてしまった癖を
直すことは並大抵のことではなく
人の努力でそれをやるのは
不可能であるか 途方もなく時間がかかります

ですが 神様にお願いをすれば
神様は為し遂げてくださるのです

しかし

自分のやり方は 成果が出なくても
安心である という誘惑があり

神様のやり方は 人の目には
非常識でチャレンジがあります

勿論 失敗することもあり
その都度 悔い改めることになりますが

そこを乗り越えるには
過程と励ましが必要です

ですがその過程も励ましも
神様からきちんと与えられます

そして人とは不思議なもので
全てが与えられること自体に
自分には何も出来ないのかと
落胆してしまうことがあり

その結果 自分の力で何かを
しようとしてしまい神様から
離れてしまうこともあるのです

ですが 自分の思いを全て諦めて
自分の周りに神様の素晴らしいみわざが
溢れだし 自分も周りも輝きだすと

自分には何も出来ないが
神様と共に生きるときに
素晴らしいことが起きる

それは自分の力ではない
神様が全てをなされており
自分は神様が良いことをなさるための
器として神様に協力する者だ

素晴らしいことが出来る
唯一の方に協力出来ることこそが
人として最高の生き方だ

と 思うようになります

しかし それを実際に体験する前に
自分は必ずそのように生きるようになる!

という信仰を掴むことが大切です

その信仰は 証を聴くことで得られますが
聴いても それが自分にも起きると
思わなければ掴んだことにはなりません

聖書は正に神様の証を記した書物ですし
今の時代でも 神様は生きておられて
神様を愛して生きる人の中で奇跡は溢れています

困ったときだけ神様頼りの生き方は
クリスチャンになる前の人の生き方です

そもそもで クリスチャンとは
イエスさまに似た者という意味です

神様のみこころに歩み
神様の臨在を運び

いつでも神様のご好意とみ恵みとに溢れ
それが周りの人にも及ぶために語る…

それをやるのは自分ではありません
それは聖霊によって為されます

イエスさまが天にあがられる時に
力を受け取りなさいと仰有られた通り

聖霊に満たされることが
それを可能にするのです

冒頭に書いた 平安に留まることも
聖霊に満たされた時に可能になります

力に満たされている時
頑張る必要も慌てる必要もなく
ただ 平安に留まることが出来るのです

それは 以前も書きましたが
一度味わってしまうと
決して離れることの出来ない蜜であると
ダビデが語る程のものです

旧約聖書の時代は 聖霊に満たされるのは
ほんの一部の選ばれた人だけでしたが

新約の時代は 全ての人が
聖霊に満たされる時代です

この時代に生かされていることに
本当に感謝します

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