裁くことなくただ祈る

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聖書には 罪と言うのは それが罪であると
知った時にはじめて罪になるということが書かれています

逆を言うと

聖書を知らずに生きている人は
知らずに罪を犯していますし
それが罪になると知らずに
何かを望んでしまっています

ですが 未信者に対して そのことで裁かないようにと
聖書にははっきり書いてありますから
私たちはその件についてあれこれ思う必要はありません

クリスチャンになってまで
未信者のようでないように
聖書の教えを伝えて訓練するようにとは
聖書にしっかりと書かれていますが

信者でない人に対して聖書を引き合いに
それは罪になりますよ というようなことは
一切思う必要もなければ言う必要もありません

しかし だからといって未信者の人に
同調する必要もありませんし

明確に罪を望んでいるのであれば
救いを祈る必要はありますが
願いが叶えられるようにと祈る必要はありません

ですが 明らかに罪だとは書いていないけれど
神様が与えないと仰っているような
願いの場合はどうすればいいかと言えば

私たちがそれに対して「判断=裁き」をすることなく
ただ委ねて祈れば良いと思います

先日 ある未信者の男性が
神様が確かにいるという確証が欲しい
ということを言っていたそうです

りゅうくんはそれを聞いた時に
今の世はしるしを求めるが与えられない
ということが思い浮かんでしまい
何も言えなくなってしまったそうなのですが

クリスチャンであっても
神様が確かにいるという確証が欲しい!と
叫んでいる人はたくさんいますし

聖書には イエスさまが目の前に居る
弟子であっても しるしが欲しいと言う人が
出てくるのです

まして 未信者の人が神様が確かにいるという
確証が欲しいと言ったとしても
全く不思議なことはありません

ですが その人がどのような心で
その台詞を言っているのかは
私たちにはわからない

ということが重要なポイントとなります

神様がその人をどうご覧になっていて
どのようにその人にご自身を示されるかは
その言葉だけでは全くわからないのです

その人の心は神様しかご存知なく
神様がどのようにその人を導かれるかについては
神様に全てを委ねることしか私たちには出来ません

ですが 私たちには自分の意志で
「とりなし」を祈ることは出来ます

その人と神様が どのような関係になって欲しいかを
祈ることは 私たちの自由意志により出来るのです

神様 もし御心ならあなたの存在を
あなたの方法でこの方に示してください

あなたの子として迎え入れられ
心の覆いが取り除かれて
あなたをはっきりと知ることが出来ますように

そのようなとりなしの祈りをすることは可能です

その人の望みが叶うようにと祈る必要はありません
ですが 神様の御心が為されるようには
祈ってよい(むしろ祈るべき)ことです

もし どう祈ればいいのかがわからない時は
昨日も書きましたが)主の祈りの原則に立ち返る

というのが鉄板と言えます

御名があがめられて
御心が為されるように

日々の糧が与えられ
罪が赦されますように

試みに遭わないように
全てがあなたの御手の中で為されますように

糧というのは食料のことだけではなく
心の糧 霊の糧であるみことばも指しています

それが与えられるように祈ることは
正しい祈り方です

ヨハネの福音書7章37b-38節
だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

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