自分の責任を果たす

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今日は 人の証というのは
自分にとっての預言となることがある

というお話です

今回の話は霊的打ち破りの話なので
そのことに限定して言い変えると

神様と一緒に霊的打ち破りをして
それを証としてシェアしたなら
証を聞いた人にも打ち破りが起こる

ということについて書いてみたいと思います

預言というのは神様から預かった言葉という意味で
未来予知などを意味する予言とは違います

神様は 関係性を最重視されますが
神様ご自身は霊であり 目に見えない存在であり
そのことは聖書にはっきり書かれています

ですから 幻や夢や預言者や兄弟姉妹の祈りを通して
今 神様が伝えたいことを示してくださる

それが預言です

預言の現れは様々ですが
「神様との関係性を深めるため」
「神様の召しを歩くため」
「神様の奇跡を地に現すため」
であると思います

その為に解放が必要であれば
解放に導く預言が与えられます

その為に癒しが必要であれば
癒しに導く預言が与えられます

奇跡が必要なら奇跡が
励ましが必要なら励ましが
愛が必要なら愛が預言により与えられます

また 悪い習慣や怒りなど
神様が恵みを渡す邪魔となっているものを
手放して欲しいと示してくださることもありますが

本人がそれを掴まなければ
神様が起こしたい解放や癒しや奇跡は起こりません

神様はご自身の栄光を現すため
私たちに預言をくださるのですが
それを掴んで地に神様の栄光が現すか否かは
人に責任があるのです

冒頭に書いた通り

預言というのは預言者から個人的に
メッセージを受けることばかりを言うのではありません

黙示録19章10節に
「イエスのあかしは預言の霊」
という御言葉がありますが

人が 神様からこのような祝福を貰った
という「証(あかし)」を聞くときに
それが自分にとって預言の言葉となることがあります

意識的に預言として掴むことも出来ますが
聖霊さまは ご自身がなさりたいように
自由に働かれることもあります

先週末 たまたまその黙示録の箇所を
読んだ直後に 正にそのことを体験しました

ある姉妹の解放の証を聞いた後
夢や啓示 りゅうくんからの預言など
様々な方法であることを示されました

それは

殆どの過去の出来事に対して
マイナスをプラスに出来る神様に
全てを委ねます 造り替えてください
という祈りをしていたのにも関わらず

自分の人生の中で最も暗かった時期に対して
そのように祈れていなかったということでした

あまりにも多くの要因が複雑に絡み合っていて
向き合うことが出来ていなかったのです

要するに

私にはその問題に向き合う力がなかったけれど
その姉妹はきちんと向き合い解放されたから
その証を聞くことにより
自分自身も解放へと導かれた

ということです

これは とても重要なことで

人には強いところと弱いところがあり
与えられる賜物は全てではない

自分には自分に割り当てられた領域があり
ひとりひとりが 自分に与えられた範囲で
神様と一緒に問題を乗り越えていくなら
それが 他の人の恵みとなっていく

ということだと感じました

このことを思った時
このみ言葉が思い浮かびました

第一コリント人への手紙12章27節
あなたがたはキリストのからだであって、
ひとりひとりは各器官なのです。

どんなに祈っても手放せなかったのに
手放す経験をした人の証を聞くことで
自分自身も手放すことが出来た

このことで

自分が与えられた領域に対して
責任を取ることの重要性と

自分には与えられていないことについて
あれこれ思い悩むことの無意味さを
強く感じることになりました

人に与えられた時間は限られています
与えられた性格や境遇や賜物もみんな違う

みんながみんな 同じ問題に取り組んで
乗り越えることはそもそもで無理なのです

ひとりひとりが 自分に課せられた問題に取り組み
乗り越えて それをシェアすることで
全員が全き者とされていくのだと思いました

尚且つ それは決して他人事ではなく
互いに祈りあい 支えあう必要がある

例えば足の小指をタンスにぶつけたら
足の小指だけが痛むのではありません
全身が痛みを感じます

胃の調子が悪くても
全身が痛みを感じます

同じ身体に属するなら
互いに無関係ではないのです

第一コリント人への手紙12章21-26
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」
と言うことはできないし、頭が足に向かって、
「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、
かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、
ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、
ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。
しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、
からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、
各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、
もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

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