尊敬の定義(イエスさまの介入に信頼する)

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昨日 ハワイの姉妹教会の牧師婦人が
女性のためのメッセージをしてくださいました

話を聞いていると 心には響かないものの
身体の痛みが消えていったので
何か解放があるのだと感じていたら

「心に感じることが出来ない程に
麻痺してしまっていることがある」と
はっきり示されたので

礼拝後の個別のお祈りも受けることにしました

祈りはすぐに終わると思っていましたが
とんでもありませんでした^^;

何があったかは割愛しますが
色々なものから解放されて気が付いたことがありました

それは 親子だとか友人知人だとか関係なく
愛ではない動機(恐れ)による支配を受け入れてしまうと
人生を壊されるということでした

別に親と自分の相性が悪かったとか
そういうことじゃなかったんだな と思ったら
とても気が楽になりました

尊厳というのは

この人には 自分の責任を背負えるだけの
強さがあると信じてあげることだと思っています

ですが 私は幼い頃にきちんと接してもらえなかったことに対し
両親は弱く 自分たちのことで精一杯だったので
子どもを愛する力がなかったのは「仕方がない」と思っていました

そしてそのことを裁かずに
弱さを認めて受け入れること
そのままを認めて受け入れること

そして相手の中にあり 自分にはない
特別な要素(召命と賜物)に対して
敬意を払うことこそが尊敬だと思っていたのです

ですが違いました

この人には力がないと言うことは
尊厳がない 尊敬していない と言うようなものだったのです

私はありのままの両親を受け入れていたつもりでしたが
実は 裁いてしまっていたのです

正確に言うと 私たちには力がないのだから
そのことを認めろ!と押し付けてくる
大人たちの言うことに支配されてしまっていました
弱い人たちのコントロールを
受け入れてしまっていたのです

そのように教え込まれたことによって
尊敬の定義をそもそもで間違えていたのです

強さも弱さもありのままに認めるだけであるなら
それは相手を尊敬していなかったのです

では尊敬とは何か

この人は良く変わることが出来る
この人にはその強さが与えられる

(それはイエスさまのことですが)

イエスさまがこの人を助けて
この人は強くなれると信じること

それこそが御国の尊敬だな と思いました

「人を見る時 その後ろに居るイエスさまを見る」
マザーテレサの言葉ですが

人を見た時に その後ろで
大丈夫 私がこの人を強めるから と
仰っているイエスさまに信頼する

ってことなんだなぁと思いました

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