責任を果たすために境界線を引く

今日は尊敬の文化スクール2日目でした

とても大切なお話ばかりだったのですが
地に属する話題が中心であったため
誤解を避けるために概略で書くことはしません

ただ 聖書の原則を守らなければ
神の権威は地に現れないということが
よく理解出来ました

イエスさまは ご自身が癒すと発言した人を癒すため
群衆を通り抜けようとしたことが聖書には書かれています

マルコ5:21-24
イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の
群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、
イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
いっしょうけんめい願ってこう言った。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、
娘の上に御手を置いてやってください。
娘が直って、助かるようにしてください。」

そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、
多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

イエスさまは 群衆が押し迫っても
ヤイロの家だけを目指して歩いていました

この後 ヤイロの家に行くまでに癒されたのは
信仰によりイエスさまの服に触れた長血の女だけでした

他にもイエスさまに触れた人はたくさんいたでしょう
しかし奇跡が起きたのは長血の女だけでした
そしてそのことを イエスさまは褒められたのです

聖書を読むと イエスさまが祈られると
必ず癒されましたことがわかります

しかし イエスさまは「神様が癒すと決められた人」だけを選び
それ以外の人に対しては祈っていないことがわかります

もし 祈って欲しいと言う人全員に対して
癒しの祈りをしていたら イエスさまはきっと
十字架に行く暇がなかったでしょう

イエスさまは ご自身に与えられた召命という
境界線を決して超えることがありませんでした

そして御国の世界ではこの「境界線」というのが
とても大切であるようだとダニー牧師はお話されていました

このことは「尊敬」或いは「尊厳」という
キーワードとも大変深い関係があります

何故なら 境界線がないところには
尊敬も尊厳もないからです

もし あなたの家に知らない人が
勝手に出入りし 冷蔵庫のものが勝手に食べられ
寝室に知らない人が寝ていたら

あなたは自分が尊敬されていて
尊厳が守られていると思うでしょうか

そのように 心にも境界線というものがあり
奥深くへの侵入を許可しているものには
相応に責任が課せられます

心の一番奥にはイエスさまがいます
誰も知らないような心の奥底をイエスさまはご存知です

次に伴侶 次に子ども 次に親友 次に知人 次に知らない人…と続きます

知人から「車が故障して困っている」と連絡があっても
その時に孫の誕生会に参加する約束があったら
今忙しいから他の人に助けを求めてくれと言うでしょう

ですが奥さんから「車が故障しちゃった」と連絡があったら
車を修理する費用は自分が負うべき責任だと思います

もし 知人の車と自宅の車の両方を
自分が修理するべきだと思うようでしたら
それは不健全な精神の持ち主だと言えます

しかし 虐待を受けて育った人や
嫌われたくない 良い人と見られたいなど
恐怖に捕らわれている人は境界線がおかしくなります

そして そのように境界線がおかしな人は
上述の 冷蔵庫や寝室の例えのように
人から尊敬をされなくなるのです

境界線という概念は御国でとても大切であるようで
神様は 境界線がおかしいと修復を促されます

実際私も 相手にNoと言う体験を
かなりたくさんすることになりました

弱い人は強い人に依存をして
何でも強い人の責任にすることで
強い人をコントロールをしようとします

ですがそこに 愛や尊敬はありません

愛の関係は 自分の人生を選び取る自由を持つ
強い人が2人いて 初めて成り立つ関係です

互いに愛し合い 助け合います
例え意見が違っても 互いが自分の責任を果たす時
愛し合って 助け合うことが可能になります

自分にある召しに対する責任を全うする

このことにこだわる時 はじめて
自分自身の責任は果たされ
神様はご自身の栄光を現してくださるのです

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