罪を赦される時

今日はQTの時に いつものようなレーマではなく
聖句から語って欲しいです とリクエストしたら
きちんと聖句を示してくださりすごく嬉しかったのですが

少し前に示されたことを再び示されたので
そのことを書こうと思います

少し前に示されたことについては
重荷を手放すための祈り方を教わった話をご参照ください

今日示された箇所はレビ記4章(1章全部)で
そこは和解の生贄の捧げ方でした

1章全部を引用するのは長すぎるので
ポイントだけを抜粋します

4章2b-3節
もし人が、主がするなと命じたすべてについて
あやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、
もし油注がれた祭司が罪を犯し、民に咎を覚えるなら、
その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、
罪のためのいけにえとして主にささげる。

4章13-14節
また、イスラエルの全会衆が過ちを犯し、集団はそのことに気づかず、
主がするなと命じられたすべてのうち一つでも行い、後で咎を覚えるなら、
彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のための
いけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。

4章22-23a節
上に立つ者が罪を犯し、その神、主がするなと命じた
すべてのうち一つでも過って行ない、後で咎を覚えるなら、
または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら(後略

4章27-28a
また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じた
ことの一つでも行ない、過って罪を犯し、後で咎を覚えるなら、
または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら(後略

祭司が罪を犯した場合
集団で罪を犯した場合
リーダーが罪を犯した場合
一般の人が罪を犯した場合という
4つ立場の人について書いてありますが

どの場合も「後で咎を覚える または
他人から指摘されたら」生贄を捧げなさい
ということが書いてあります

罪を犯した段階では 当然ながら
生贄も赦しも適応されておらず
罪人として居る状態です

咎を覚えたり 他人に指摘されて
罪だと自覚し 悔い改めようと思った時に
初めて赦される準備が整い

生贄を捧げるなら…新約の時代の場合は
イエスさまが贖ってくださったことを
信じるなら赦されるのです 

罪を罪だと気付くことなく 咎を覚えることもなく
他人に指摘されても自分が罪を犯していると認めなければ
罪人のまま居続けることになりますし

自分や他人を責めていても
罪人のまま居続けることになるのです

このことを神様から示された後に
少し仮眠を取ったのですが

夢の中で 亡くなった父のことを
他の兄弟姉妹に弁護する夢を見ました

父は 偶像崇拝の人でしたが
聖徒である私のことを助けたのだから
父は神様からきちんと覚えて貰っている
神様は父のことも救ってくださると力説する夢でした

マタイの福音書10章42節
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、
水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。
その人は決して報いに漏れることはありません。

福音を聞かずに亡くなった人について
聖書には明確に書いておらず
既に亡くなった肉親が救われるかどうかは
正確にはわかりません

ですが 目覚めた時に何故か
神様は父を救ってくださった という
強い確信と深い平安があり

気付くと足腰の痛みが無くなっていたのです

父には聖書的に言うと2つの側面があります
偶像崇拝の罪を犯していたということと
私の父親であり育ててくれた人だということです

神様は 罪を忘れてくださる方ですが
その条件として

他人の罪を責めることを止めれば
あなたの罪も赦そう

ということがはっきり書いてあります

父は偶像崇拝をしていたけど
きちんと救ってもらえるのだろうか

と 心配をすること自体が
父の罪を責めることになっていたのです

ですが私は夢の中で 他の人に対して
父は救われると力説していました

自分の口で告白することで
平安と癒しを頂くことが出来たのです

不思議な形での解放でしたが

神様は 私たちの口を用いて 自らの意思で
呪いを打ち砕いて欲しいと
思っていらっしゃるのだと思いました

罪の中に居る人に対して
信仰により義の宣言をする

これは力あるとりなしの祈りです

これは 以前 道行く人たちに
赦しを宣言した時の解放感とよく似ています
「赦す」という宣言の意味参照)

全ての人が 神様を知り福音を受け入れ
自らの全ての罪をイエスさまに
委ね続けることが出来るように祈ります

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