光と栄養

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今朝 教会に行く電車の中で
りゅうくんが神様から面白い示しを受けていました

植物がある場所で芽を出し
待望の光を浴びた

もっともっと大きくなりたいと
光を求めたけど一向に大きくならない
私は光に届かないのかと悲しんでいると

あなたの足元を よく見てみなさい
と示される

下を見てみると既に実がなっていた
というものでした

その話を聞いた時と夜
それぞれ別の示しを頂きました

ひとつは 光へ光へと向かう貪りについて
もうひとつは本当に太くて良い枝の姿勢についてです

まず この話を聞いて最初に思ったのは
バベルの塔の話でした

物理的なバベルの塔ではなく
霊的なバベルの塔の話です
(もっと言うと教会建てあげの話ですが
 そこの詳細については今回は割愛します)

神様はひとりひとりを違う形の石として造り
それを神様の身丈ほどに積み上げようと思っていました

ところが人は 自分自身を四角四面
同じ型に押し込めて積みやすい形にして
積み上げることで神様に近づこうと考えた

人を自分たちが扱いやすいように
同じ型に押し込めようとすることも

人自身が自分の力で
神に届く者となろうとすることも
神様の御心ではなかったので

打ち砕かれた

というものでした

人はこうあるべき こうでないから自分はダメ
他の人はこうなのに自分は他の人と違うからダメだ

とダメ出しばかりしている人というのは
自分自身をレンガにしようとする人で

そういう人はバベルの塔のように
神様から砕かれてしまいます

自分自身は 神様に愛されて造られた石で
とっても愛していて
神様ご自身の手により
美しく磨こうとしてくださっている

ということを知ることはとても大切だ
ということが1つ目の示しでした

そしてもう一つは 聖書の中でも有名な
ぶどうの木と枝の例えからの示しです

ヨハネの福音書15章1-5節
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはみな、
父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、
もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

あなたがたは、わたしがあなたがたに
話したことばによって、もうきよいのです。

わたしにとどまりなさい。
わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、
枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、
実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしも
その人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです。

木の枝は たくさん葉をつけてたくさん光を浴び
大きく大きく伸びていこうとします

光へ光へと伸びていこうとするのに
ある時 枝は切り込まれ 葉はもぎ取られ
時には実を結ぼうとしていたのに取られてしまい
ショックを受けます

ですが 農夫にしてみれば
剪定(せんてい)をしなければ
大きくて良い実を結ばないので
手入れをするのは当然のことです

無駄に長く飛び出している枝葉は切られ
多すぎる葉は落とされます
花や実も 多すぎれば大きく育たないので
良いものだけ残して他は摘み取ってしまいます

また 外だけを見ている木の枝は
光と注がれる水についてだけ興味を示して喜びます

しかし枝にとって 本当に大切なのは幹の方です

自分自身が大きくなり良い実を結ぶかどうかも
幹との関係により大きく左右されます

光に意識を向けることは葉に任せ
自分自身の伸びる方向性や
葉や花や実の取り扱いは剪定してくださる方に委ね

自分自身は幹の方に意識を向けて

自分もこの幹のように太くて丈夫で
たくさんの良い栄養素と水を流せるような
立派な幹になろう

その為にはまずたくさんの良い栄養を
この幹からたくさん貰わなくちゃ

そう思う時に 立派な枝へと成長していくのです

葉や花や実の量に捕らわれることなく
ただ自分は良い栄養を運ぶものとして居れば
結果として良い実を結ぶ立派な枝になります

上に伸びよう伸びようと頑張って
疲れてしまうのではなく

自分と幹との関係をしっかり結ぶことに
目を向けることが本当に大切だなぁと思います

私たちは イエスさまに繋がることで
全天のみ恵みにより祝福を注がれる方に
いのちを与えられています

確かに 注がれる光や雨は素晴らしく
私たちはそれを賛美しますが

栄養を届けてくださる幹にしっかりと繋がり
剪定してくださる御手に自分を委ねること

それが 良い実を結ぶためにはとても大切です

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