真理であり道でありいのちである方を受け入れる

最近のりゅうくんを見ていて
ひとつのことに気付きました

弱いところに遭遇するとすぐに
自分自身が主権を握ってしまうのです

本当なら 弱いところこそ神様に
委ねる必要があるのにそれが出来ないのです

そのことについて本人も神様に対して
必死に祈ってはいるのですが

その祈りを見ていて
祈り方が違う と感じました

この「違う」という感覚を
どう表現すればいいのかと思案していると

神様からこの聖句が示されました

ヨハネの福音書14章6節b
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり
父のみもとに来ることはありません。

このことをざくっと言うなら

どんなに自分が肉の思いで祈っても
イエスさまと一緒でなければ
神様にその祈りは届かない

と 言い換えることが出来ます

正確に言うと

神様は人の思いを全てご存知で
何を祈っているのかもご存知ですが

神様がその祈りは義であると
認めて貰えない ということです

この事は 聖書にある2つの記述から
読み解くことが出来ます

イエスさまの弟子ではなかった人が
イエスさまのみ名で悪霊を追い出そうとした記述が
聖書の中には2か所出てきます

最初の例では 悪霊を追い出すことに成功しています

マルコの福音書9章38-40節
ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて
悪霊を追い出している者を見ましたが、
私たちの仲間ではないので、やめさせました。」

しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。
わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、
すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。

わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」

ところがもう一例では 悪霊を追い出すことに失敗しています

使徒の働き19章13-16節
ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の
魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、
悪霊につかれている者に向かって主イエスの御吊をとなえ、
「パウロの宣べ伝えているイエスによって、
おまえたちに命じる。」と言ってみた。

そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長
スケワという人の七人の息子たちであった。

すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、
パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。

そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、
ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、
彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。

この2つの違いは イエスさまに対する信仰です

前者では イエスさまはわたしたちに反対しない者は
わたしたちの味方だと仰っていることから
イエスさまを肯定していることがわかります

ところが後者は 魔よけの祈祷師(偶像崇拝者)であり
イエスさまを十字架にかけた立場である
ユダヤの祭司の息子が「ためし」で言っているのです

同じ イエスさまのお名前を用いて祈っていても
心が全く違うことがわかります

確かに イエスさまのお名前には権威があり

何かを祈る時 祈りの最後に
「イエスさまのお名前によりお祈りします」と
付けることには力があると教会では教えています

しかし イエスさまを自分の主として迎え入れ
自分の中心にきちんとイエスさまを
置いているかどうかは重要です

これは洗礼を受けているかどうかという
意味ではありませんし

洗礼を受けたからと言って
心がイエスさまを受け入れていなければ
義と認めてもらうことは出来ないのです

少し脱線しますが 洗礼を受けていなくても
「心で信じ口で告白するなら」
救いに預かることが約束されています

ローマ人への手紙10章9-10節
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中から
よみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

事実 洗礼を受けていない友人が
イエスさまを受け入れて祈った時に
奇跡が起きたと証をしてくれたことはあります

しかし 洗礼を受けて神様の子となり
弟子訓練を受けずにいると
あっという間に世に流されてしまうのです

神の子としての揺るがないアイデンティティを
築くことは 救いを確かなものにして
周りに御国を押し広げる影響力となるのです

話を元(冒頭)に戻しますが

りゅうくんは「人への恐れや気遣い」に遭遇すると
イエスさまを忘れて自分のやり方に
頼ってしまう(戻ってしまう)弱さがありました

そのこと自体は前々からわかっていて
神様に助けを求める祈りをしていたのですが

しかしその弱さは対人面ばかりではなく
神様に祈り向かう姿勢にも
現れてしまっていたことに気付いたのです

それが「違う」と感じた理由でした

なので 神様に祈る前に イエスさまを
心に受け入れる祈りをするように促しました

心からイエスさまを信頼してイエスさまに頼り
イエスさまと一緒に神様に祈ること

主権をイエスさまに委ねることが大切なのです

マタイの福音書18章19-20節
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。
もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、
地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです。

わたしたちは誰一人として
イエスさま抜きに神様の御前に行くことは出来ません

イエスさまがいてくださるから
父なる神様はその祈りをかなえてくださるのです

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