弱さに現れる栄光

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人の弱いところに 神様が栄光を現してくださる

そのことは 自分の範囲においては
体験的にわかっていましたが

神様の領域というのは 私が考える範囲と
全く違うことを今日も実感しました

少し前に りゅうくんが私に
ある物語を書いてくれました

その物語の中では 傷ついた女の子のために
神様が 庭をその女の子が好きなお花で
埋め尽くして 一緒にお散歩をしようと
声をかけてくださるシーンがありました

実は 私は幼い頃から
神様に特別に油注いでいただいていることがあります

それは 住む場所の周囲の開拓が
とても進むという油注ぎです

正直言うと 別に私が携わって起きることではないので
たまたま そういう開発が起こる場所に
魅力を感じて住んでいるだけだと思っていましたが

りゅうくんが神様から受け取ったメッセージによると
神様が私のために開発を進めてくださっているそうなのです

勿論 それは大変時間のかかることですが
確かに クリスチャンになってからは特に顕著に
私好みのお店が出来たり 駅や駅周辺の整備が進んでいます

それが 霊的に言うと 神様が私好みの
花園を造ってくださっている ということで

それは私に対する慰めであると仰るのです

住む場所が生き生きと開発されることが
私の慰めとなる というのはよくわかります

街の雰囲気が停滞していると心も沈みますし
お店が繁盛していたり 人が笑顔で活気があると
それだけでとても元気になります

誰でも多かれ少なかれそうだと思いますが
私は感受性 共感する力が強くて
影響を受けやすいように感じます

あまりにも私とは社会的にも
関係がないことのように感じていたのですが

しかし よく考えると私は
住んでいる土地に対してよく祈るのです

疲れているような人 イライラした人
ギャンブルに明け暮れる人
怪我や体調不良を抱えているような人

そういう人を見れば必ず祈ります

また 祈るだけではなく
思いを馳せることも多いです

喫茶店やファミレスで
どんな話題が為されているのかに耳を傾け
その地域に住む人の傾向について考えます

曜日と時間帯でどんな人が多く街に居るのかを見て
人が入っていないお店を見れば
どんな店であれば需要があるのかと考えます

単純に そういうのが好きなのだと思いますが

そうやって気にかけて
そこで生活する人のことを思い
街が発展することを祈ることは
私にとって とても普通のことです

なので 全く意識をしていませんでしたが

この事について 神様は
神様が私のためにただ為してくださっているだけではなく
私に祈りで手伝ってもらっている
という思いを持ってくださっているようなのです

私にしてみれば 神様が見せてくださったことに
期待と希望を持って 神様 もっともっと!と
言っているだけのように思うのですけど(苦笑

それを 神様が喜んでくださっている
ということみたいなのです

そして冒頭の話題に戻ります

弱さに栄光を現してくださる ということについて

私は(前にも書きましたが)
社会的に 失敗という表現で片づけるには
取り返しのつかないようなことを
積み重ねて来てしまっています

そしてそれは どんなにイエスさまが
贖ってくださったとしても
起きてしまった事実が消えることはありません

故に 全く社会的に経験がないりゅうくんのことを
羨ましいと思った ということを書きましたが

神様は りゅうくんが失敗をしないことで
私を慰めようとされているのだと
示してくださいました

正直言うと りゅうくんはかなり
意識が甘く 向き合う力もありません

なので最初のうちは 大変
私の負担となっていました

ですが それを神様に強められて
しっかり建てあげられています

りゅうくんと神様との関係が深まるにつれて
私の心理的な負担は軽くなり 安心が与えられます

神様に任せておけば大丈夫 ということではありません
祈りや(神様から示されて)教えることで
神様が為さることに参加しています

正直 邪魔をしていないかとかなり心配なのですが

しかし 今日の神様からの示しはこうでした

敵の手口は 既にあるものを疑わせたり
既に持っているものをまるで
持っていないかのように思わせるものです

あなたの中には確かに まだ
消化しきれていない思いがあります
ですがそれは 私の愛 私の与えるもの
私との時間よりも大切なものですか?

りゅうに今築き上げている誠実さ
それはあなたの弱いところの建て上げでもあります

あなたは 人の問題をすぐに背負ってしまう
でもそれは人を強くはしません

あなたは祈ればいいのです あとは私がやります
自分が背負おうとしてはいけませんし
あなたに背負わせようとする世の力に
怒りを持つ必要もありません

何故なら 私が全てするのですから

そう 私のこの背負う性質というのは
人から背負わされて 怒りと共に形成してきた
間違えた性質なのです

神様は 怒りを手放せとも
背負わせた人を許せとも言われません

何故なら私は背負わされたこと自体に
怒りを持っているのではなく

人が神様に頼らずに私に頼ることを
怒っているからなのです

しかし 以前の私にはそれが言えませんでした

何故なら 以前の私には神様のことが
わかっていなかったからです

ですが 今の私には聖書があり
模範となる師がたくさんいます

人から頼られた時 神様の臨在を
その人に渡すのは確かに私たちの役割なのです

神様により今 その経験(練習)が
出来ていることに本当に感謝します

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